オフコースのページ

このページでは、日本を代表するバンド、オフコースについて紹介します。

 

●オフコースとは・・・?

 オフコースは、1969年に結成し1989年に解散するまでの20年間邦楽シーンで活躍したバンドです。元々は小田和正、鈴木康博、地主道夫の3人が聖光学院高校に在学中にフォーク・グループを結成したのがはじまりです。この時のバンド名は「ジ・オフ・コース」でした。1969年に第3回「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に出場し、大健闘の末惜しくも第2位(ちなみに第1位は「赤い鳥」だった)。このコンテストで1位を取って音楽活動をやめようと思っていた小田と鈴木は、結果に納得いかずバンドを続けることに決めます。1970年4月5日、東芝音楽工業からシングル「群衆の中で」でレコード・デビューを果たしました(ただしこの曲はオフコースの自作ではない)。

 程なくして地主が脱退、小田と鈴木の2人になったグループは「オフ・コース」と改名。この間にもメンバーの入れ替えが何度かありましたが、1973年にシングル「僕の贈りもの」とファースト・アルバム『僕の贈りもの』をリリース。ここからが実質的なオフコースの活動の始まりです(2人時代)。オフコースはコンサートをこなしながらアルバムやシングルを順調に制作、1975年にはシングル「眠れぬ夜」が小ヒットするまでに至りましたが、世間的な認知度はこの時点ではまだ低いものでした。

 1976年に、大間ジロー、松尾一彦、清水仁が相次いでグループに加入。後に代表曲の1つとなる「秋の気配」(1977年)からバンド名を「オフコース」に改名。表面的には小田と鈴木の2人編成のままでしたが、この頃のアルバムやコンサートでは新メンバー3人が演奏を支え、欠かせない存在となっていました。そして、その3人が正式にバンドのメンバーとなって初めてのアルバムが1979年の『Three and Two』です(5人時代)。この頃から、「愛を止めないで」「さよなら」「Yes-No」とヒットが続き、特に「さよなら」が一大ブームを巻き起こすと知名度が爆発的に上がってゆきました。この頃にはコンサートもツアー型の大規模なものとなり、画期的な演出は多くの著名人が訪れる程の人気を博しました。一方、TV出演をかたくなに拒むなど、他アーティストとは異なる姿勢を貫く個性派バンドとしても知られるようになります。

 そんな成功の裏側で、1980年冬、鈴木がグループからの脱退を口にします。これに対し他のメンバー、特に小田は深く心を痛めます。脱退はすぐに公言されなかったものの、相次ぐ名盤・名曲のリリースやTV番組「若い広場」(1981年)の出演やコンサート・ツアーでますます絶頂期を迎える中、オフコースは「解散」への道を徐々に歩み始めます。そして、「オフコース解散」の噂が大々的に報じられ始めた1982年、鈴木はアルバム『I LOVE YOU』とTV用映画「NEXT」を最後にオフコースを脱退。これを受け、オフコースは一時活動を休止することとなります。

 1984年4月、シングル「君が、嘘を、ついた」でオフコースは小田を中心にグループに残った清水・松尾・大間と共に活動を再開(4人時代)。東芝からファンハウスに移籍し、それまでとはがらりと変わったスタイルの楽曲を発表してゆきます。この間も、大規模なコンサート・ツアーがあったり、LIVE AIDに日本代表として参加したり(1985年)と相変わらず活躍。「緑の日々」「たそがれ」「もっと近くに」など数々の名曲を送り出しました。また、映像作品にも力を入れ始め、数々の画期的な試みが行われました。しかし、これと同時に小田・松尾・清水の3人はソロ・アルバムもリリース。その中でも小田は「ソロとしての音楽作り」への関心を高めてゆきます。こうした中、結果的に名曲「君住む街へ」を収録したアルバム『Still a long way to go』(1988年)がオフコースのラスト・アルバムとなり、1989年2月26日、東京ドームで開催されたスペシャル・コンサート「The Night with Us」を最後にオフコースは解散。20年に及ぶ歴史に幕を降ろしたのでした。

 その後の小田和正の活躍ぶりは言わずと知れています。鈴木康博はソロで地道に活躍しています。清水仁・松尾一彦・大間ジローは「A.B.C.」というバンドを結成し共に活動を続けています。そして、伝説のバンド・オフコースは多くの「再結成」を望む声がある中、今なお新たなファンを増やしているのです。

左から、小田和正松尾一彦清水仁鈴木康博大間ジロー

●オフコースのメンバー

 一般的に「オフコース」と言うと下記5人のことを指します。厳密には、幻のメンバー「地主道夫」「小林和行」「吉田浩二」もいるのですが・・・。

 小田和正(おだ かずまさ)・・・1947年生まれ、キーボード担当。オフコース結成から解散まで在籍した唯一のメンバー。その事実や、オフコースの楽曲の3分の2の作曲とヴォーカルを担当したことから、オフコースのリーダー的存在として知られる。独特のハイトーン・ヴォーカルが魅力的。オフコース解散後ソロでも活躍していることは言うまでもない。

 鈴木康博(すずき やすひろ)・・・1948年生まれ、ギター担当。オフコース結成時からのメンバーで、1982年に脱退。オフコースに確かな演奏法とアレンジをもたらした人物。小田とは少年時代からの心の友。リズミカルな名曲を多く残しており、今でも彼のファンは多い。

 松尾一彦(まつお かずひこ)・・・1954年生まれ、主にギター担当。1979年から解散までオフコースに在籍。鈴木脱退後のオフコースの音楽に多大な影響を与えた。ハーモニカも演奏し、名演を多く生んだ。後期を中心に自作曲を残しており、名曲も多い。

 清水仁(しみず ひとし)・・・1950年生まれ、ベース担当。1979年から解散までオフコースに在籍。オフコース・サウンドにロック魂を吹き込んだ人。オフコース末期に自作曲をいくつか残している。

 大間ジロー(おおま じろー)・・・1954年生まれ、ドラムス担当。1979年から解散までオフコースに在籍。メンバー間の関係を取り持つ気さくな性格の人物。オフコースにおいて自作曲・ヴォーカル曲は作っていないが、彼の迫力ある正確なドラミングはオフコース・サウンドには欠かせない。

●オフコース・サウンドの変化と魅力

 概してオフコース・サウンドの魅力は、「ポップ」に様々な音楽要素を混ぜ合わせた独特の作風と、小田和正のハイトーン・ヴォーカルとそれに絡む緻密なコーラスワーク、全メンバーの確かな力量のある演奏、純粋な恋を歌った詞作などが挙げられます。その中で、オフコース・サウンドは時代によって様々な色を見せています。

 「ジ・オフ・コース」時代は、主にレコード会社から提供された他人の曲を歌っていて、オリジナル性はあまり感じられません。また、本格デビュー前のため知名度も低いです。

 しかし、小田と鈴木で活動した2人時代には、フォークとアメリカン・ポップスを混ぜた独自のスタイルを既に確立しています。これには、彼らが聴き親しんだカーペンターズやピーター・ポール&マリーなどの影響があると思われます。アコースティック・ギター中心のあっさりとしたサウンドで、美しいコーラスワークが魅力です。当時はヒットしなかったものの、「僕の贈りもの」「眠れぬ夜」「秋の気配」など今「名曲」と認知されている曲がいっぱいあります。これらは、泥臭いフォークが全盛期だった当時としてはとても斬新なものでした。最初はアレンジは他人に任せていましたが、やがてアレンジやプロデュースを自ら行うようになり、武藤敏史が共同プロデューサーを担当するようになってからは、徐々に凝ったアレンジを施すようになります。

 これが、松尾・清水・大間の加わった5人時代になると、それまでの繊細な作風にロック魂が吹き込まれ、演奏もエレキ・ギターやキーボード中心のハードなものになってゆきます。ロックを知らなかった小田が「勉強になった」と述懐している程、そのインパクトは大きかったのです。『JUNKTION』『FAIRWAY』といったアルバムでは以前の作風との試行錯誤が垣間見れますが、その後はビル・シュネーをエンジニアに迎えるなど、ウェスト・コースト・サウンドを意識したようなダイナミックな音作りとミックスを確立します。この頃はヒット曲にも恵まれ、「愛を止めないで」「さよなら」「Yes-No」など有名曲がいっぱい。一方詞作面では、鈴木のオフコース脱退前夜に小田と鈴木がお互いへのメッセージ・ソングを多く作っています。

 鈴木脱退後の4人時代は、松尾の影響を大きく受けロック色の強いものになっています。サウンドもがらりと変わり、'80年代後半の音楽シーンに直接的な影響を受けたシンセドラムを基調としたハードで無機質なアレンジが目に付きます。やがて、コンピュータ・プログラミングも多用するようになります。松尾・清水の曲も増え、バラエティ豊かに。この時代も、もちろん名曲がたくさん。「君が、嘘を、ついた」「緑の日々」「君住む街へ」などが挙げられます。また、全米進出をかけて英語アルバムを制作したり、スケールの大きなプロモーション・ヴィデオを手がけたり新たな試行錯誤を繰り広げる傍ら、ソロ活動もありました。この時代のことを小田は「各自が独立できるための準備期間」と振り返っていますが、いろいろな経験を経た上で解散に踏み切ったと言えるでしょう。

 新たにオフコースのファンになる人の多くは、小田和正経由でその存在を知ったことでしょう。しかし、オフコースの醍醐味は、小田和正のみならずすべてのメンバーにあります。美しいバラードや洋楽嗜好たっぷりの曲を数多く残した鈴木康博、後期にロックの名曲を残した松尾一彦と清水仁、そして後方で堅実にグループを支えてきた大間ジロー。オフコースはメンバー全員が主役であり、決して小田和正1人が主役のグループではなかったのです。ですから、オフコースを聴く上ではヒット・シングルを多く残した小田和正の曲のみならず、各アルバムやシングルのB面に収録されている他メンバーの曲にも耳を傾けてみましょう。また、ライヴ・ヴィデオやプロモ・ヴィデオなどの映像作品を見るのもよいでしょう。そうすることで、オフコースの本当の魅力が分かるはずです。

●オフコースが日本のミュージック・シーンを変えた

 あまり知られていないことですが、オフコースは現在当たり前になっている日本のミュージック・シーンの概念の数々を、他に先んじて実践してきました。つまり、オフコースが現在の日本のミュージック・シーンの生みの親なのです。

 まず、「自前主義」精神を掲げたこと。これは、デビューのきっかけとなったコンテストでの敗北に対して、「いつか自分の力で見返してやる!」という気持ちがあったからこそのものです。具体的に言えば、作曲・作詞・アレンジそしてプロデュースを自らで行うこと。そして、楽器の演奏も基本的な部分は自ら行うこと。今では「シンガーソングライター」など当たり前の世の中ですが、当時はレコード会社が用意した曲を歌うという方式が主流だったのです。オフコースは、ジ・オフ・コース時代でこそ他人の歌を歌っていましたが、それ以降はほぼ全曲自作曲のみを発表しています。レコード会社が用意した新曲「忘れ雪」を「他人の曲だから」という理由でコンサートで歌わなかった、いわゆる「忘れ雪事件」も、この精神があってのことです。オフコースはこの精神を解散直前まで守り続けます。

 続いて、曲の質を追求するためレコーディングに多くの時間を費やしたこと。手軽に録音してさっさと売り出す当時の邦楽レコーディング事情を考えるとこれは異例のことでした。初期の名盤『ワインの匂い』は、当時の日本での最長レコーディング期間を更新しています。また、オフコースはTVにほとんど出なかったことで知られていますが、それも宣伝よりレコーディングを重視したことも理由に挙げられます。

 ライヴ活動においても、オフコースは革新的でした。新しいアルバムができると、そのアルバムを中心にしたセットリストでコンサート・ツアーを行うという流れは、実は元をたどるとオフコースにあります。また、コンサートでの音響・映像効果などに徹底的にこだわったのもオフコース。ライヴ映像でそれらを確認することができますが、最大限効果的に演奏を聞かせる方法を、常に考えていました。他にも、1つのコンセプトを元にコンサートを試行錯誤的に作り上げてゆく「オフコースの小さな部屋」(1975年〜1978年)など、時代の先を行く試みを繰り返していました。現在当然の如く行われていることは、すべてオフコースが生み出したものなのです。

 後年、小田和正は映画制作を行いますが、小田の映像への強いこだわりは、TV用映画「NEXT」や、後期オフコースにおけるプロモーション・ヴィデオに顕著に表れています。こうした映像作品は、単にグループの姿や演奏を見せるだけでなく、ストーリー仕立ての独創的なものでした。こうした試みも当時の日本では珍しく、日本における現在のミュージック・ヴィデオのさきがけとも言えます。また、映像作品では大間・清水といった影になりがちなメンバーにスポットを当て、「メンバー全員が主役」ということを強調しています。

 オフコースは日本の音楽だけでなく、日本の音楽業界の概念までも変えていったのでした。

 ●私とオフコース

 まずお断りしておきますが、私はオフコースのリアル・タイムのファンではありません(汗)。私がオフコースを知ったのは、多くの後追い世代がそうであるように、小田さん経由でした。いくつかのオフコース・ナンバーは小田さんの『自己ベスト』で先にリメイクを聴いていたのですが、リメイクではぴんと来なかったものでも、原曲を聴いて初めて「素晴らしい!」と思えた曲が多くありました。そこでまず、Yassさん(=鈴木康博)が在籍していた頃の曲をシングルA・B面集『SINGLES』で聴き、続いてベスト盤『君住む街へ』で4人時代のオフコースの曲も聴きました。そのうちにオフコースの魅力にどんどんはまってゆき、オフコースのオリジナル・アルバムをすべて揃え、ほぼすべての曲を入手するに至りました。

 オフコースで私が一番好きな時代は、実は4人時代です。別にYassさんが嫌いというわけではないのですが(汗)、松尾さんのロック・テイストといつもの小田節が絶妙に混ざり合った所がツボにはまっているのです。メンバー別では、そうしたこともあり全体的には松尾さんの曲が一番好きです(笑)。カラオケでは松尾さんの曲ばかり歌っている程です。もちろん小田さんの曲もYassさんの曲も名曲ばかりでお気に入りも多いです。

 一番好きなアルバムは、『The Best Year of My Life』です。その次が、『ワインの匂い』『over』『I LOVE YOU』『Back Streets of Tokyo』辺りです。

 一番好きな曲は、「ENDLESS NIGHTS」です。4人時代が好きなので、「LAST NIGHT」「愛よりも」「夏の日」「夏から夏まで」などお気に入りの曲は4人時代に固まっています(苦笑)。もちろん2人時代・5人時代にもお気に入りは多く、「言葉にできない」「YES-YES-YES」「I LOVE YOU」といったシングル曲(小田さんの曲)から、「愛のゆくえ」「美しい思い出に」「幻想」「夜はふたりで」「僕のいいたいこと」といったアルバムナンバー、シングルB面曲(小田さん以外の曲含む)までたくさんあります。

 

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