ポール・マッカートニーのページ

 ●ポール・マッカートニーとは

 ポール・マッカートニーの名前は、皆さん一度は聞いたことがあるでしょう。とりわけビートルズ時代に関しては、グループにおけるその功績と名曲の数々を多少なりともご存知のはずです。しかし、ビートルズ解散後のポールのソロ活動については知らない方も多いかと思います。

 そこで、本ページではまず、ビートルズ解散後を中心にポールの長きに渡る音楽キャリアについて大まかに解説致します。より詳細な時代背景・作風の変遷などはディスコグラフィにて各アルバムの解説をご覧ください。

 ポール・マッカートニー(Paul McCartney/フルネーム:ジェームズ・ポール・マッカートニー)は、1942年6月18日に英国の港町・リバプールで生まれました。父親のジェームズはセミプロのジャズ・ミュージシャンだったことがあり、その影響で幼少期からジャズやクラシックに触れてきたことが、後のポールの音楽性に多大な影響を与えます。母親のメアリーはポールが14歳の時に病死(1956年)。時を同じくして、ポールはロックンロールの洗礼を受けて一気に夢中に。父に買ってもらったギターで練習に励みます。また、エルビス・プレスリー、チャック・ベリー、バディ・ホリー、リトル・リチャードといったロックンロールのアイドルたちに影響を受けて自ら作曲も始めます。処女作は「アイ・ロスト・マイ・リトル・ガール」。そして1957年7月6日、ポールはジョン・レノンと運命的な出会いを果たし、彼のバンド、ザ・クオリーメン(The Quarrymen)に加入します。これがいまや「20世紀最大のアーティスト」と呼ばれるザ・ビートルズ(The Beatles)の原型となるのです。

 ビートルズに改名したバンドは幾多のメンバーチェンジを経て、最終的にはジョン、ポール、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターの4人編成となります。この間、当初リード・ギタリストであったポールはベーシストに転向。そして、1962年10月にシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」でビートルズは実質的なレコード・デビューを果たします。この後の世界中を席巻する快進撃は周知の通り。当サイトではビートルズ時代に関しては取り扱わないため詳しい説明は割愛させて頂きますが、ポールはジョンと「レノン−マッカートニー」の作曲パートナーを組んで、今なお世界中で親しまれ続ける数々のヒット曲・名曲を世に送り出しました。その中には「イエスタデイ」「ヘイ・ジュード」「レット・イット・ビー」など、ポールが単独あるいは中心となって書いた曲も多くあります。また、バンドの成長に伴ってポールは基本ポジションであるベースの他にリード・ギター、ピアノなどのキーボード類、果てにはドラムスまでも演奏し、マルチ・プレイヤーぶりを発揮しました。他にも屈指の名盤『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』やTV映画「マジカル・ミステリー・ツアー」のアイデアなど、ビートルズではリーダーであるジョンに匹敵する中心的な役割を果たすことになってゆきます。

 しかし、ビートルズの栄光も長くは続きませんでした。マネージャーのブライアン・エプスタインの死去(1967年)を境に、ビートルズは徐々にばらばらになってゆきます。自ら設立したアップル社はたちまち経営難に陥り、レコーディングでは音楽性が異なってきたメンバー間の衝突も際立ち、1968年頃にはビートルズは既に崩壊寸前の状態にありました。そんな中、ポールは何とかグループを存続させようと、中断していたライヴ活動の再開を試みる(後の「ゲット・バック・セッション」)など、他のメンバーをリードしようとしました。しかし、かねてからビートルズであることに関心を失っていたジョンがオノ・ヨーコと結婚。ヨーコとの活動に軸足を移すと、ジョンは会議の場でポールたちにビートルズからの脱退を内々に宣言。この時初めて、ポールは「ビートルズは終わった」と悟ったのでした。

 1969年3月に写真家のリンダ・イーストマンと結婚していたポールは、スコットランドの農場に引きこもって今後の方向性に頭を悩ませます。そして、初のソロ・アルバム『ポール・マッカートニー』(1970年4月発売)を仕上げます。新たな家族に支えられながら、すべての楽器を1人で演奏したこのアルバムの発売直前、ポールはアルバム付属のプレス・キットでのインタビューという形式でビートルズからの脱退を実質的に宣言。先に脱退の意志を固めていたジョンを差し置いて「ビートルズ解散」を公にしました。そしてその通りに、ラスト・アルバム『レット・イット・ビー』をもってビートルズは程なく解散しました。

 ここからポールのソロ活動が始まるのですが、「脱退宣言」を行ったことに対してポールは「ビートルズを解散させた男」という悪名高いレッテルを貼られてしまいます。『ポール・マッカートニー』や、続いて発売された愛妻リンダとの共同名義のアルバム『ラム』(1971年)は評論家たちから不当な評価を浴びせられます。また、ビートルズの解散をめぐる訴訟などもあり盟友であったジョンやジョージともしばらく険悪な関係が続きました。特に、自らビートルズを終わらせたかったジョンのショックは大きく、「眠れるかい?(How Do You Sleep?)」を筆頭に解散直後のジョンの楽曲ではポールがしばしば痛烈に非難されています。

 こうした逆風にもくじけず、ポールは1971年中旬に新たなバンドを結成します。それが、ポール、リンダ、デニー・レイン(元ムーディー・ブルース)を中心としたウイングス(Wings)です。そして、その年末に発売されたデビュー・アルバム『ウイングス・ワイルド・ライフ』を皮切りに、アルバム制作とライヴ活動を精力的にこなしてゆきます。ポールはリンダにキーボードを教え、夫婦共にステージに立ちました。当初はラフな音作りやリンダの存在などを酷評していた評論家たちも、だんだんポールとウイングスに正当な評価を下すようになり、バラードの名曲「マイ・ラヴ」が全米No.1ヒットとなった1973年には非難も昔のものとなりました。

 ウイングスは中核となる3人を除きメンバー・チェンジが激しかったものの、『バンド・オン・ザ・ラン』『ヴィーナス・アンド・マース』などの名盤、「バンド・オン・ザ・ラン」「心のラヴ・ソング」「夢の旅人」などのヒット曲を相次いで世に送り出し、ライヴ活動においては延べ60万人の観客を動員した全米ツアー(1976年5〜6月)を筆頭に大成功を収め、数年の間で世界中で有名なバンドに一躍成長してゆきました。また、目立たない動きではあったものの、'70年代末までには険悪な仲だったジョンとも和解してゆき、リンゴのアルバムに楽曲を提供するなど元ビートルズのメンバーとのわだかまりも解消されてゆきました。

 しかし、やがてウイングスにも終焉が訪れます。1980年1月16日、ウイングスのコンサート・ツアーで日本にやって来たポールが、成田空港で大麻不法所持のかどで逮捕されてしまう事件が発生。来日公演は中止となり、10日間の拘留生活の末に強制送還されたポールは多大なショックを受けます。しばしの沈黙の後、前年に自宅録音していた曲たちをソロ・アルバム『マッカートニーII』として発売。これを契機に音楽活動を再開しようとしていましたが、その矢先にジョンが殺害されてしまいます(1980年12月8日)。衝撃的な事件の連続に困惑したポールに、次に待ち受けていたのはデニー・レインのウイングス脱退(1981年4月)でした。オリジナル・メンバーであったデニーの脱退をもって、ウイングスは事実上解散となりました。(ウイングスについての詳細はこちらでも解説しています。)

 これに前後する形でポールは再びバンドからソロ活動に転向しますが、ポールにとってそれは同時に、ジョンという失われたパートナーの後釜探しの始まりだったかもしれません。'80年代のポールは様々な個性を持つ大物アーティストとの共演を試みます。ビートルズ時代のプロデューサーだったジョージ・マーティンを再び迎えたアルバム『タッグ・オブ・ウォー』(1982年)ではスティービー・ワンダーと、その姉妹作にあたる『パイプス・オブ・ピース』(1983年)ではマイケル・ジャクソンと共演し、いずれもヒット曲を生み出しました。しかし湧き上がる創作意欲とは正反対に、この頃からポールの作品は売上不振に陥ってゆきます。ポール自らが企画・主演・音楽をつとめた劇場用映画「ヤァ!ブロード・ストリート」(1984年)は大コケに終わり、エリック・スチュワート(元10cc)と共作・共演したアルバム『プレス・トゥ・プレイ』(1986年)では実験的な作風がファンの失望を招いてしまいます。大幅な方針転換を余儀なくされたポールは、スタジオワーク重視からの脱却を図りました。その成果が結実したのがライヴでの演奏を念頭に置いたアルバム『フラワーズ・イン・ザ・ダート』(1989年)であり、エルビス・コステロとの共作「マイ・ブレイヴ・フェイス」をはじめ久々にチャートの上位に食い込むヒット作となりました。そしてこの年、新たなバンドを引き連れてウイングス以来のワールド・ツアーに出て約10年ぶりに本格的なライヴ活動を再開し、ポールの「復活」を世界中に印象付けました。

 '90年代以降のポールの音楽活動はそれまでに増して多岐になってゆきます。『リヴァプール・オラトリオ』(1991年)を皮切りに本格的なクラシック音楽に挑戦する傍ら、1993年にYOUTHと組んだ変名名義のユニット、ザ・ファイアーマン(The Fireman)のアルバムでは前衛的なハウス・ミュージックを展開。また、ウイングス時代や'80年代には避ける傾向にあったビートルズにも積極的に向き合い、ライヴでビートルズナンバーを多く演奏したり、「ビートルズ・アンソロジー」プロジェクト(1995年)に参加した際にはジョージやリンゴとの再会を楽しみました。ビートルズを見直したことは自身のソロ活動にも影響を及ぼし、リンゴをゲストに迎えた『フレイミング・パイ』(1997年)ではシンプルなアコースティック・サウンドが中心となりました。音楽活動の他にも、動物愛護・環境保護の観点から菜食主義の推奨や動物実験への反対といった運動も強化してゆきます。1997年には、これまでの音楽活動を評価され英国王室から「Sir」の称号を贈られました。

 そんな中、ポールの人生を支えてきた愛妻リンダが乳癌で亡くなります(1998年4月)。しばらくは涙に暮れたポールですが、リンダが生前望んでいたロックンロールのカヴァー・アルバム『ラン・デヴィル・ラン』(1999年)で音楽活動に本格復帰。同年にはロックの殿堂入りを果たします。21世紀初のオリジナル・アルバム『ドライヴィング・レイン』(2001年)を発表すると、若手ミュージシャン中心の新たなバンドを率いてソロで3度目のワールド・ツアーを敢行。2002年にはかねてより交際のあったヘザー・ミルズと再婚(2008年に離婚)。公私共に区切りをつけました。2007年には古巣EMIのパーロフォン・レーベルを離れてスターバックス系列のレーベル「ヒア・ミュージック」に電撃移籍。アルバム『追憶の彼方に』とシングル「ダンス・トゥナイト」が話題を呼びました。新天地でも多彩な作風の新譜を継続的に発表してゆく傍ら、過去のソロ/ウイングス時代のアルバムをリマスター盤として再発売する「ポール・マッカートニー・アーカイブ・コレクション」というプロジェクトを行っています。ライヴ活動も毎年定期的に行っており、全キャリアから選りすぐった1日2時間以上に及ぶセットリストを引っさげて各国をめぐっています。2013年から始まった「アウト・ゼアー」ツアーでは来日公演が2度(2013年11月、2015年4月)実現しました。また、2011年にはナンシー・シェベルと再婚。新たな伴侶に見守られながら、ポールは70歳を超えた今でも年齢を感じさせない現役ぶりで精力的に音楽活動を続けています。現在、最新スタジオ・アルバムは2020年発表の『マッカートニーIII』です。

 ポールといえばビートルズ時代の名曲のもたらすイメージから美しいバラードナンバーやキャッチーなポップナンバーが得意分野としてよく知られますが、上述のキャリアをご覧頂ければ分かるように、実はポールの守備範囲はそれだけではありません。痛快なロックンロールや飛び切りハードなロックナンバー、古きよき時代を思わせるジャズ・ソングや洗練されたクラシック音楽、ポールが愛聴するレゲエ・スタイル、さらにはその時代ごとに最先端を行く流行の音楽(ディスコ、テクノ、ニューウェーブ、エレクトリック・ポップ、ハウス・ミュージック、ヒップホップ、前衛音楽などなど・・・)にも果敢に挑戦してゆきました。それはビートルズ時代から現在に至るまで変わることなく実践され続け、決して過去の栄光に囚われて保守的になることなく、常に前を向いて進化してゆこうとする姿勢がはっきりとうかがえます。その上で、どれだけ普段と違うスタイルになろうとも、どれだけ実験的なアプローチを行おうとも、ポールが書いた曲の根底にはポールでしか生み出せない、シンプルで躍動感あふれるメロディが根付いています。いわば、ポールには様々な音楽を一度自分の中に吸収し、それを自己流に解釈して唯一無二の「マッカートニー・ミュージック」として形にしてゆく能力があるのです。それゆえに、一世一代の天才メロディ・メイカー、ポール・マッカートニーの紡ぎ出す音楽はいつ聴いても新鮮で、私たちに喜びと感動を与えるのです。

●私(当サイト管理人)とポール・マッカートニーの出会い

 私は、中学生の頃にビートルズを知って以来、ビートルズのアルバムをずっと好んで聴いていましたが、私がポールのソロ/ウイングス時代の曲を聴き始めたのはそれからだいぶ経った2004年8月のことでした。金銭的な事情から元ビートルズのソロ・アルバムに手を広げるようになるまで時間がかかってしまったのです。当時の私にとっては、「イエスタデイ」「ヘイ・ジュード」「レット・イット・ビー」といったビートルズ時代のポールの曲はあまりにも月並みで退屈に感じられてしまい(汗)、どちらかと言えばジョンの書いた曲にお気に入りが多く、「ジョン派」と言ってもよい状況にありました(ただ、店頭に並んでいるポールのソロ・アルバムにはそれなりの興味を示していて、「どんなアルバムなんだろう」「ウイングスって何人編成なんだろう」などといろいろ想像していました)。

 そんなある日、NHKの音楽番組(だったと思う)の番宣でウイングスの曲と紹介されて無性にキャッチーな曲(後に「バンド・オン・ザ・ラン」と判明)がちらっと流れていたのを偶然聴いて、「ウイングスってなんてすごくキャッチーなんだろう!」と思い、いよいよ重い腰を上げることになります。とりあえず何かアルバムを買おうと思い立ち、「ウイングスの最高傑作」という情報を仕入れていた『バンド・オン・ザ・ラン』を購入。わくわくしながらCDを再生したのですが・・・私の想像よりもスローな曲が多く、何だか肩透かしを食らわされたような気がして、途中で聴くのをやめてしまいました(汗)。今思えば何とも愚かな思い込みだったと猛省するばかりなのですが、「ウイングスはキャッチーでアップテンポな曲がいっぱい」という勝手な先入観が私の中で出来上がってしまっていて、『バンド・オン・ザ・ラン』の3曲目以降はそのイメージと違っていたため、「これは自分が求めていたのとは違う」と思ってしまったのです。最初に聴くアルバムをもっとよく考えるべきだったのでしょうが、私にとって初のソロ/ウイングス時代のポールはほろ苦い思い出になってしまいました・・・。

 こうしてしばらく『バンド・オン・ザ・ラン』は放置してあったのですが、しばらくぶりに引っ張り出して先入観抜きに改めて聴いてみた所、今度は素敵な曲がたくさん詰まっていることに気づき、それから私の中でポール・ブームが一気に沸き起こります。ポールのアルバムを定期的に2〜3枚ずつ購入してゆき、当時容易に入手できたアルバムは数ヶ月の間にすべて聴き倒してしまいました。そして、ソロ/ウイングス時代のポールの素晴らしさをいろんな人と共有したいと思うようになり、当サイト設立時にこの「ポール・マッカートニーのページ」を作成、現在に至ります。

 今では単なる「ポール・ファン」の領域を超えて「ポール・マニア」を自認するまでにポール大好き人間となっています(笑)。現在、一部クラシックや前衛音楽のアルバムを除きすべてのオリジナル・アルバムを入手して聴いています。ちなみに初めてリアルタイムでの購入となったのは2005年の『裏庭の混沌と創造』。他にもオリジナル・アルバム未収録曲、映像作品、デニー・レインなどの関連アーティストの作品、さらには一部ブート(海賊盤)音源にも手を染めています(苦笑)。そして、私が初めてポールのコンサートに足を運び、人生初の「生ポール」を体験したのが2013年11月19日の「アウト・ゼアー」ツアー東京公演2日目。すぐそこでポールが歌っている、それだけでもう感涙でした。翌2014年5月17日の「アウト・ゼアー」ツアー東京公演初日にも参戦し、会場でグッズを購入する所まで来たものの、ポールの体調不良でツアー自体があえなく中止に(汗)。その時の無念は、2015年4月23日の「アウト・ゼアー」ツアー東京公演初日で人生2度目の「生ポール」を体験したことですべて吹き飛びました。続く2017年の「ワン・オン・ワン」ツアーは4月27日の東京公演2日目を観に行きました。ちなみに、2006年1月14日のデニー・レイン来日公演(アラン・パーソンズの前座でしたが・・・)にも足を運んでいて、「生ポール」より先に「生デニー」を体験している私です(苦笑)。

 私が入手したアルバム:(聴いた順に)『Band On The Run』『All The Best!(英国版)』『McCartneyII』『Venus And Mars』『London Town』『Wings At The Speed Of Sound』『All The Best!(米国版)』『Red Rose Speedway』『Wingspan』『Tug Of War』『Give My Regards To Broad Street』『Ram』『Pipes Of Peace』『Flowers In The Dirt』『McCartney』『Wings Greatest』『Wings Over America』『The Greatest』『Off The Ground』『Flowers In The Dirt -Special Package-』『Wings Wild Life』『Band On The Run -25th Anniversary Edition-』『Flaming Pie』『Press To Play』『Driving Rain』『Back To The Egg』『Chaos And Creation In The Backyard』『CHOBA B CCCP』『Unplugged』『Tripping The Live Fantastic』『Off The Ground -The Complete Works-』『Paul Is Live!』『Memory Almost Full』『Twin Freaks』『Run Devil Run』『Good Evening New York City』『Band On The Run(Paul McCartney Archive Collection)』『McCartney(Paul McCartney Archive Collection)』『McCartneyII(Paul McCartney Archive Collection)』『Thrillington』『Kisses On The Bottom』『Ram(Paul McCartney Archive Collection)』『Back In The U.S.』『Electric Arguments』『New』『Wings Over America(Paul McCartney Archive Collection)』『Venus And Mars(Paul McCartney Archive Collection)』『Wings At The Speed Of Sound(Paul McCartney Archive Collection)』『Tug Of War(Paul McCartney Archive Collection)』『Pipes Of Peace(Paul McCartney Archive Collection)』『Pure McCartney』『Working Classical』『Flowers In The Dirt(Paul McCartney Archive Collection)』『Standing Stone』『Liverpool Oratorio』『Egypt Station』『Wings Wild Life(Paul McCartney Archive Collection)』『Red Rose Speedway(Paul McCartney Archive Collection)』『Ocean's Kingdom』『Strawberries Oceans Ships Forest』『Liverpool Sound Collage』『Rushes』『Amoeba Gig』『Ecce Cor Meum』

 私の大好きなアルバム:『London Town』『Press To Play』が特にお気に入り!次点が『Back To The Egg』『McCartneyII』『New』、次々点が『Flowers In The Dirt』『Chaos And Creation In The Backyard』『Egypt Station』辺り。

 私の大好きなベスト盤:ダントツで『All The Best!(米国版)』でしょう!

 私の大好きな曲:結構多いので挙げるときりがないのですが、たまらなく大好きな曲はこのページに挙げておきました。『London Town』と『Press To Play』の曲は分け隔てなくお気に入りです。

 

ポール・マッカートニー・ディスコグラフィへ

ウイングスの紹介ページへ

ポール・マッカートニー アルバム人気投票 ←ぜひ一票を投じていってください!

ポール・マッカートニー関連のコラム・企画へ

TOPページへ