|
このアルバムの収録曲中1〜10はオリジナル版に収録されていた曲で、11〜14はCDでのボーナス・トラックです。初CD化の際は12・13と「オウ・ウーマン、オウ・ホワイ」(シングル「アナザー・デイ」B面)の3曲がボーナス・トラックでしたが、1993年に「ザ・ポール・マッカートニー・コレクション」シリーズでの再発売に合わせて、「オウ・ウーマン、オウ・ホワイ」はアルバム『ラム』のボーナス・トラックとなり、代わりに11・14(後者のクレジットは「ポール・マッカートニー&ウイングス」名義)の2曲が追加され、ボーナス・トラックは4曲となりました。いずれもこのアルバム発売の翌年にあたる1972年に発表ないしは録音された曲です。また、7・10はアナログ盤ではクレジットのないシークレット・トラックの扱いでしたが、CD化の際に初めてタイトルが付けられました。
収録曲のうち、カヴァー曲である3を除く全曲がポール本人による作曲で、ポールとリンダの共作名義となっています。前作『ラム』では半数がリンダとの共作曲でしたが、曲想やアドバイスを与えてくれるリンダの多大な貢献にポールは深く感謝しており、このアルバムに始まり1976年頃までの自作曲をすべてリンダとの共作名義で発表しています。
【時代背景】
愛妻リンダの全面的な手助けを受け、夫妻のデュオ名義のアルバム『ラム』(1971年5月発売)を制作・発表したポール。一連のセッションを通じて、プライベートだけでなく音楽面でもリンダの存在の大きさに気づくと、これからも彼女と一緒に音楽活動を続け、ひいては2人でステージに立ちたい・・・という思いを強くしてゆきました。そこでまず、ポールはリンダにキーボードを教えます。写真家が本職で、ミュージシャンとしての経験は全くなかったリンダには戸惑いもありましたが、子供の頃から音楽好きということもあり、やがて2人で演奏を楽しむようになります。そのような流れでポールの口から「一緒にバンドを結成してみない?」と告げられるのは自然な成り行きでした。ビートルズの解散から1年強、ポールはリンダとの音楽活動の夢を「新たなバンドの結成」という形で実現することを決意したのでした。
早速ポールはバンドのメンバーになってくれるミュージシャンを探します。ドラマーには『ラム』のレコーディングに参加したデニー・シーウェルをニューヨークから迎えました(1971年6月)。ポールいわくタムタムのたたき方を気に入ったとのこと。『ラム』のミュージシャンからはもう1人、ヒュー・マクラッケン(ギター)も招かれていましたが、子供と一緒に過ごす時間がほしいとしてこちらは辞退。一方、ポールのヴォーカルにコーラスを入れてくれるギタリスト(ビートルズでのジョン・レノンの役割を想定していた)としてビートルズ時代から友人だった元ムーディー・ブルースのデニー・レインを誘いました。当時デニーはいろんなバンドを転々としながらソロ・アルバムの制作を計画していましたが、ポールの誘いに快諾します。こうして揃った4人のメンバーは、ポールがデモを録音するために農場に設けた自宅スタジオ「ルード・スタジオ」でリハーサルを開始します。ポールがバンドを結成したという噂はたちまち世間に広まりますが、ポールはそのバンドでレコーディングし、コンサート・ツアーに出る計画があることを8月に入って正式に発表します。
【アルバム制作】
生まれたてのバンドで早くツアーに出たい気持ちでいっぱいだったポールは、バンドの名前も決まらないまま、そのためのアルバム制作に着手します。レコーディングは1971年7月に、手軽なロンドンのアビイ・ロード・スタジオを「サム・ブラウン」という偽名で予約して行われました。エンジニアはトニー・クラーク(ポールとはバッドフィンガーのアルバムで一緒に仕事をしたことがある)とアラン・パーソンズ(後にアーティストとしても大成する)。そして、そのほとんどをなんと3日間(7月24〜26日)で終わらせてしまいました。このことについて、ポールは「ボブ・ディランが1週間でアルバムを作ったことに触発された」と話していますが、ビートルズのデビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』のほとんどを1日で録音した自身の経験も念頭に置いていたと考えられます。短期集中型はポールのお気に入りのようで、後年も『ラン・デヴィル・ラン』『ドライヴィング・レイン』といったアルバムでこの手法を用いています。セッションで取り上げられた新曲はほぼそのままアルバムに収録されることになり、限られた時間で少しでも多くの曲を完成させるため、1などはわずか1テイクしか録られていません。特にキーボード初心者のリンダに配慮して、コード進行やキーボードのフレーズはできるだけシンプルなものにとどめました。取り急ぎレコーディングを済ませると、編集もこれまた急ピッチに仕上げ、アルバムは完成しました。
この頃リンダは三女ステラを宿していました。ポールはリンダの体調によってはアルバム制作の中断も考えていましたが、リンダはセッションを完遂します。そして難産の末にステラは9月13日に生まれますが、キングス・カレッジ・ホスピタルでその時を待つ間「天使の翼」という言葉が思い浮かんだポールは、未決定だったバンドの名前を「ウイングス(Wings)」と名づけてはどうかと考えます。バンド名がウイングスに正式に決まったことは10月に入って報道されました。
アルバム・ジャケットはバリー・ラテガンによる撮影で、ロンドン西部のオスタレイ・パーク(ウイングスの次々作『バンド・オン・ザ・ラン』のジャケットも同地での撮影)で自然に囲まれてたたずむ4人のメンバーを写したもの。ウイングスの名やアルバム・タイトルは表には書かれていません。裏ジャケットにはクリント・ハリガン(その実はポール本人)によるスリーブ・ノートと、ポールが4人を描いた軽めのイラストが掲載されています。レコードのレーベル面には、A面にリンダが撮ったポールの顔写真が、B面にポールが撮ったリンダの顔写真が、それぞれ採用されました。
【発売後の流れ】
11月8日に、ロンドンでウイングスの結成披露パーティーが開かれました。ジミー・ペイジやエルトン・ジョンなども招かれたこの祝宴でアルバムの内容が初公開されます。宣伝効果を狙って直後にアルバムを発売する予定でしたが、製造工程上のトラブルが原因で発売日は結局12月にずれ込んでしまいました。ポールの夢と期待を背負ったウイングスのデビュー・アルバムは、チャートでは低調に終わりました。ポールの地元・英国ではベスト・テン入りさえ果たせませんでした。そこに追い打ちをかけたのが音楽評論家たちによる酷評でした。ビートルズ解散以来、ポールは「ビートルズを解散させた男」という一方的なレッテルを貼られ、ビートルズと違う方向性を目指せばことごとく昔と比較され、作品に不当な評価を下されていましたが、メンバーが集まったばかりのバンドがたった3日間で録音した粗野な仕上がりの『ウイングス・ワイルド・ライフ』は弱点をつつきやすい恰好の餌食となってしまったのです。「気軽な雰囲気もいいが、もっと毒がほしい」「全体的に筋の通った所がない」という意見もあれば、「ポールの作曲能力はどん底まで堕ちた」とまで言い切る者まで現れました。ビートルズという「ものさし」でしかポールを測ることができず、常にビートルズのような豪勢なサウンド・完成度の高さを求め続けていた彼らにとって、このアルバムを貧弱としか捉えられなかったのは仕方ないことでした。
世間の反応にショックを受けたポールでしたが、ウイングスの活動を次に展開させるため、ビートルズの幻影と闘いながら前進してゆきます。当初アルバムから3のシングルカットが予定されていましたが、1972年1月30日に起きた「血の日曜日事件」に抗議するためポールが11を書き上げたためこの計画はボツとなり、代わりに11が急遽シングル発売されました(1972年2月)。念願のコンサート・ツアーに関しても、1972年1月からリハーサルを始め、その過程で5人目のメンバーとしてギタリストのヘンリー・マッカロクを加えます。そして2月からはこの5人編成で英国各地の大学を回るウイングス初のツアーを開始することとなります。しかしながら、そうした活動は常に評論家たちの非難の的となり、ウイングスが正当に評価されるようになるには今しばらく時間がかかったのでした。
【管理人の評価】
ウイングスをいち早く始動させたかったポールが一種の「焦り」に駆られて急ごしらえで作ったことを反映し、このアルバムの仕上がりは非常に粗削りです。演奏面でもヴォーカル面でも、前作『ラム』に見られた緻密なアレンジで聞かせる曲は少なく、この点がリスナーの期待に添えずチャート・アクションもイマイチに終わってしまったと言えます。特に一発録りで完成させた曲が集まるアルバムの前半は、リハーサル・テイクをそのまま持ってきたかのような感もあります。また、やはりアルバム前半を中心に同じフレーズを大きな展開もなく単調に繰り返すだけという曲が多く、それでいて(演奏時間を少しでも伸ばしたいためか)1曲1曲が5〜6分と異様に長いのも聴きづらさを与えています。もう少し時間をかけてじっくり練り上げていれば完成度はもっと上がったと思いますが、ポールはクオリティを犠牲にしてでもウイングスをデビューさせたかったのです。このアルバムの詰めの甘さはポール本人も後年認めており、「作るべきじゃなかった」などやや否定的な発言もしています。
しかし、このような形で発表したことが間違いかといえば必ずしもそうではありません。確かに全体的にラフなのは否めませんが、シンプルに徹しわずかなテイクで完成させたことでバンドのノリや勢いを重視したライヴ感あふれる演奏がそのまま収録された、とも言えます。派手なアレンジやオーバーダブがない分、このアルバムではウイングスのライヴ・バンドとしての側面を純粋な状態で楽しむことができます。また、「立ち上がってダンスをしたい時にはサイド・ワンを、女の子にキスをさせたい時はサイド・トゥを」とリンダが語るように、A面にダンサブルなロック・ナンバーを、B面に美しいメロディを持つソフトな曲を集めるという一定のコンセプトがあり、決して「筋の通った所がない」ことはありません。そしてそのB面に5・8・9といったポールらしさが冴えるバラードの佳曲が隠れているから侮れません。そうした曲には既にビートルズの面影はなく、むしろ数年後に登場するウイングスのヒット曲に通じる要素を垣間見せています(6のキャッチーなメロディや8での3声のコーラスワークなど)。一歩ずつながら、ポールはビートルズから脱却した自身のスタイルを確立し始めていたのです。
以上見てきたように、このアルバムは文字通りの意味でも、それ以外の面でもウイングスの原点となっています。ウイングスの諸作品では今でも最も人気のない1枚に甘んじていますが(汗)、もっと再注目されるべきだと思います。特にB面の隠れた名曲たちには一度耳を傾けて頂きたい所です。ウイングスやポールをこれから聴く方に強くお勧めできるアルバムではないですが、凝ったスタジオワークよりもシンプルな4ピースのバンド・サウンドの方がお気に入りという人にはうってつけです。良し悪しはともかく、このアルバムがウイングスの記念すべきデビュー・アルバムであることは疑いの余地がありません。ちなみに、私は1・3・5・6・9(ボーナス・トラックだと11)が特に好きです。
なお、このアルバムは2018年にリマスター盤シリーズ「ポール・マッカートニー・アーカイブ・コレクション」の一環としてキャピトルから再発売されました。初登場の未発表音源がたっぷりのボーナス・ディスクが追加されているほか、関連映像を収録したDVDも付いてくるので(一部仕様のみ)、今から買うとしたらそちらの方がお勧めでしょう。解説はこちらから。
アルバム『ウイングス・ワイルド・ライフ』発売40周年記念!収録曲+aを管理人が全曲対訳!!
1.マンボ
極めてラフだが、一発録りで完成させた勢いとバンドの楽しい雰囲気が伝わってくるファンキーな曲。冒頭の掛け声はエンジニアのトニー・クラークに対してのもの。歌詞は大変聞き取りづらく、ポールの公式サイトではインスト扱いにされている。ウイングスは1972年のヨーロッパ・ツアーでこの曲を取り上げた。2005年のリミックス・アルバム『ツイン・フリークス』にはさらにハチャメチャなヴァージョンが収録されている。
2.ビップ・ボップ
エコーをかけたポールの一風変わったヴォーカルと、リンダの合いの手が楽しいカントリー・ナンバー。タイトルは娘のメアリーが口にした言葉より。シンプルで覚えやすいメロディはポールならではだが、1986年のインタビューでは嫌いな曲として挙げ、「うへっ、聴けたもんじゃない」とコメントしている。一方で、2016年にはベスト盤『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』(デラックス・エディションのみ)に収録している。
1971年にスコットランドの農場でリンダや娘たちを前にこの曲を弾き語るホーム・ムービーが存在し、この時の演奏を「ヘイ・ディドル」とのメドレーでベスト盤『夢の翼〜ヒッツ・アンド・ヒストリー〜』で聴くことができる。1972年の大学ツアーとヨーロッパ・ツアーでセットリスト入りしたが、後者ではなんと!オープニング・ナンバーだった(ツアー中盤より「出ておいでよ、お嬢さん」に交代)。
3.ラヴ・イズ・ストレンジ
カヴァー・アルバムやライヴ盤を除けばポールのソロ・キャリアでは非常に珍しいカヴァー曲。オリジナルはデュオ・グループのミッキー&シルビアのヒット曲(1956年)で、エヴァリー・ブラザーズやバディ・ホリーもカヴァーしている。ここではポールとリンダお気に入りのレゲエ・アレンジで演奏されていて、フォーク調のオリジナルとは一線を画している。2人の息の合ったデュエットも醍醐味の1つ。アルバムからシングルカットする予定で型番まで準備されていたが、「アイルランドに平和を」のシングル発売が急遽決まりボツとなった。いきなりハードになるエンディングが面白いです。
4.ワイルド・ライフ
菜食主義者の側面も持つポールが長年訴えかけている地球環境保護や動物愛護を題材にした初めての曲。「動物にも人間と同じように生きる権利がある」と、野生動物を殺し虐待する世界に警鐘を鳴らしているが、当時その歌詞が注目されることはなかった。後年の「レット・ミー・ロール・イット」を思わせるブルージーな曲で、リンダが弾くキーボードがアクセントとなっている。あえて怒りを抑えたようなポールのせつないシャウトと、リンダとデニー・レインによる美しいコーラスとの対比も印象的。初期ウイングスのライヴでは定番で、1972年と1973年のすべてのコンサートで演奏されている。アナログ盤はここまでがA面。
5.サム・ピープル・ネバー・ノウ
穏やかなアコースティック・バラードの佳曲で、最後はなぜかパーカッション・ソロで終わる。「夜、眠れる人もいる」という一節がジョン・レノンの「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ(眠れるかい?)」に対する返答だと噂されたが、ポールは否定している。実際にはリンダのことを理解してくれない世間への皮肉と取ることができる。4分過ぎ辺りからポールのヴォーカルが一時的に非常に小さくなる箇所があるが、編集ミスと思われる。1972年の大学ツアーで演奏された。
6.アイ・アム・ユア・シンガー
ポールとリンダのデュエット・ナンバーで、リンダは一部でリード・ヴォーカルも取っている。一緒に歌って愛をはぐくんだ2人にぴったりのラヴ・ソングだが、曲調はセンチメンタルな仕上がり。間奏以降にリコーダーがフィーチャーされている。1972年のヨーロッパ・ツアーではボサノバ風のアレンジで演奏された。ウイングス後年のヒット曲「しあわせの予感」に通じる雰囲気がありますね。
7.ビップ・ボップ・リンク
ポールのアコースティック・ギター弾き語りによる、「ビップ・ボップ」のメロディを基にしたアドリブ・インスト。アナログ盤ではタイトルがクレジットされていないシークレット・トラックだった。
8.トゥモロウ
ビートルズ時代の「イエスタデイ」(昨日)のコード進行を利用して書いた曲で、ずばり「明日」というタイトル。ポールいわく「玄人受けする曲」で、リンダの父リー・イーストマンのお気に入りだった。ピアノはポール、ベースはデニー・レイン。後にウイングス最強の武器の1つとなるポール、リンダ、デニーによる3声のコーラスの素晴らしさを堪能できる。ベスト盤『夢の翼〜ヒッツ・アンド・ヒストリー〜』にも収録。1975年のアルバム『ヴィーナス・アンド・マース』セッションで、レゲエ・アレンジのインストという形でリメイクしているが未発表のままである(未発表曲集『コールド・カッツ』にも収録予定だった)。
9.ディア・フレンド
ビートルズ解散後1971年初頭にかけて書かれたピアノ・バラード。重苦しくも美しいオーケストラのアレンジは、ビートルズの「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」やウイングスの「マイ・ラヴ」なども手がけたリチャード・ヒューソンによるもの。歌詞は険悪な仲にあったジョンへの思いをつづったものだが、前作『ラム』で見られたような攻撃的な色合いは薄れ、諦めに似た気持ちが表れている。新たなバンドのデビュー・アルバムの最後に置く辺りにポールの意図がうかがえます。しかし何だか戦後日本のムード歌謡のような趣もあり、二葉あき子の「古き花園」と「フランチェスカの鐘」を足して2で割ったような感じです(苦笑)。
10.マンボ・リンク
「マンボ」の中間部のギター・リフを基にしたハードな演奏のアドリブ・インストで、いきなりカットアウトして終わる。これもアナログ盤ではシークレット・トラックの扱いだった。これを「ディア・フレンド」の余韻をぶち壊す形で収録するのもどうかと思いますが。
〜ボーナス・トラック〜
11.アイルランドに平和を
1972年2月25日に発売されたウイングス初のシングル。ウイングスに加入したばかりのヘンリー・マッカロクが初参加した曲である。支配する英国と、独立を求めるカトリック系市民との間で摩擦が生じている北アイルランドで、英国軍が市民のデモ隊に発砲、多くのアイルランド人が犠牲となったいわゆる「血の日曜日事件」(1972年1月30日)に激怒したポールが1日で書き上げたプロテスト・ソング。レコーディングは2月1日に行われた。ストレートなロックにのせて「アイルランドをアイルランド人に返せ」と英国政府に訴えかけている。アイルランド出身のヘンリーが弾く渾身のギター・ソロと、ポールの力強いシャウトが聴き所。シングルのB面には「ヴァージョン」という名のインスト・ヴァージョンが収録されていた。
政治的だとして英国BBCなどでは放送禁止となったが、英国で最高16位・米国で最高21位を記録(アイルランドやスペインでは1位を獲得)。同じく「血の日曜日事件」を非難した「血まみれの日曜日」「ザ・ラック・オブ・ジ・アイリッシュ」を書いたジョンがこの曲に肯定的な意見を残している。1972年のツアーで取り上げられ、MCでは「放送禁止になった曲をやります」と紹介していた。ベスト盤『夢の翼〜ヒッツ・アンド・ヒストリー〜』に収録予定だったが、発売前に北アイルランド独立過激派によるテロが発生したためオミットされてしまった。2018年に「ポール・マッカートニー・アーカイブ・コレクション」シリーズで再発売された『ウイングス・ワイルド・ライフ』にも引き続きボーナス・トラックとして収録されている。私の大好きな曲の1つです。
12.メアリーの小羊
娘メアリーを題材にした子供向けのかわいらしい歌で、曲は自作だが歌詞は同名のよく知られる童謡「メリーさんのひつじ」からほぼそのまま引用してきている。リンダにヘザー、メアリーと一家揃ってコーラスに参加。ポールがピアノを、ヘンリーがマンドリンを弾いている。1972年5月12日にウイングスのセカンド・シングルとして発表され、英国で9位・米国で28位まで上昇した。しかし、評論家たちは「アイルランドに平和を」と比較して「軟弱だ」「一貫性がない」などと非難した。
プロモ・ヴィデオは4種類制作され、納屋を模したスタジオでの演奏だったり、サイケデリックなエフェクトを加えたりといった内容だった。また、1973年放送のTV番組「ジェイムズ・ポール・マッカートニー」では公園でくつろぐウイングスをフィーチャーした映像と共にリメイク・ヴァージョンが登場する。1972年のヨーロッパ・ツアーでも演奏されていた。2018年に「ポール・マッカートニー・アーカイブ・コレクション」シリーズで『レッド・ローズ・スピードウェイ』が再発売された際には、そちらのボーナス・トラックに収録されている。
13.リトル・ウーマン・ラヴ
シングル「メアリーの小羊」のB面だった曲。『ラム』セッションで既に録音されていたもので、ギターはヒュー・マクラッケン、ドラムスはデニー・シーウェル。軽快なピアノ・ポップで、リンダの“Oh yeah”というコーラスがとても印象に残る。歌詞もポジティブで楽しい。B面曲ながら一時期盛んに取り上げられていて(いずれも「C・ムーン」とのメドレー形式)、1973年の全英ツアーや1975年のワールド・ツアー(英国とオーストラリア)で演奏された。また、TV番組「ジェイムズ・ポール・マッカートニー」やリハーサル・セッション「ワン・ハンド・クラッピング」(1974年)でも披露されている。「ポール・マッカートニー・アーカイブ・コレクション」シリーズでは、『ラム』(2012年再発売)及び『レッド・ローズ・スピードウェイ』(2018年再発売)のボーナス・トラックに収録されている。
14.ママズ・リトル・ガール
ポールが娘たちのために書いたアコースティック・ナンバーで、砂糖菓子のように甘いヴォーカルを聴くことができる。リンダとデニーによるコーラスも美しい。TV番組「ジェイムズ・ポール・マッカートニー」では弾き語りメドレーの1曲として登場する予定だったが、放送ではカットされてしまった(こうした経緯のためATVミュージックが版権を共同管理している)。
1972年にウイングスのセカンド・アルバム『レッド・ローズ・スピードウェイ』(1973年発表)用に録音され、アルバムが2枚組であった当初の収録曲だったがお蔵入りとなってしまった。その後未発表曲集『コールド・カッツ』に収録するため幾度となくオーバーダブやリミックスが繰り返されたが、こちらもアルバムの構想自体が頓挫。結局は1987年のクリス・トーマスとの共同プロデュース、ビル・プライスのミキシングによるヴァージョンが1990年のシングル「プット・イット・ゼア」のB面に収録されてようやく陽の目を浴びた。同年に発売された、アルバム『フラワーズ・イン・ザ・ダート』の来日記念盤にも収録されていた。2018年に「ポール・マッカートニー・アーカイブ・コレクション」シリーズで『レッド・ローズ・スピードウェイ』が再発売された際には、1973年12月のミックスがボーナス・トラックに収録されている。