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このアルバムの収録曲はすべてオリジナル版に収録された曲です。初CD化及び、「ザ・ポール・マッカートニー・コレクション」シリーズでの再発売(1993年)の際には、ボーナス・トラックは追加されませんでした。収録曲のうち、ポールとスティービー・ワンダーの共作である4を除く全曲がポール本人による作曲です。
【時代背景】
1980年1月にポールの逮捕・強制送還により日本公演が中止になって以降、ウイングスの活動は白紙に戻りました。この時期、メンバーはそれぞれ独自の活動を展開しています。デニー・レインはソロ・アルバム『ジャパニーズ・ティアーズ』(1980年12月発売)の制作を開始し、妻ジョジョやスティーヴ・ホリーらと共にコンサート・ツアーに出ました。ローレンス・ジュバーもソロ活動を模索し、曲想を求めて渡米。そしてポールは、10年ぶりのソロ・アルバム『マッカートニーII』(1980年5月発売)を仕上げた後、7月は元ビートルズのリンゴ・スターのアルバム『バラの香りを』のレコーディングに参加。「プライベート・プロパティ」「アテンション」の2曲を書き下ろしたほか、リンダやローレンスを帯同しプロデュースも担当するという力の入れようでした。一方、ウイングスが再集結して本格的に音楽活動を再開したのは10月になってからで、ケント州にあるピュージンズ・ホールというオペラ劇場で断続的にリハーサル・セッションが行われました。このセッションでは、肩慣らし用の多くのオールディーズと共に、ポールが書き溜めてきた大量の新曲(2・6・12や「レインクラウズ」「キープ・アンダー・カヴァー」「アヴェレージ・パーソン」「ノー・バリュース」など)が試されています。また、発売が延期されていた未発表曲集『コールド・カッツ』のオーバーダブやリミックスも並行して進めましたが、しばらくして再度お蔵入りになっています。
ポールは、ウイングスの新作のプロデュースをジョージ・マーティンに依頼します。マーティンは言わずもがなビートルズ時代のプロデューサーであり、ポールにとっては音楽の「先生」にあたる存在ですが、ビートルズ解散後2人が一緒に仕事をする機会は少なくなっていました。そんな中、ポール自ら企画した短編アニメ映画「ルパートとカエルの歌」の主題歌「ウィ・オール・スタンド・トゥゲザー」のレコーディング(10月31日・11月3日)で久々にタッグを組んだことをきっかけに、ポールは20曲ほどのデモ・テープをマーティンに聞かせ、アルバムをどう作ればいいか相談します。マーティンはプロデュースを喜んで引き受けますが、同時に「どうして自分より下手な人間を使うんだい?ある分野では君の上を行く人間をどうして使わないんだ?」と助言します。固定された顔ぶれ(すなわちバンド)でのアルバム制作に限界を感じていたポールは、いったん他のメンバーには休んでもらって、デニーと2人でスタジオ入りし新作の構想を練り直します。
その矢先の12月8日、ジョン・レノンがニューヨークの自宅前で凶弾に倒れました。9日の朝早く、ポールは無二の親友の衝撃的な死を自宅でマネージャーから知らされると、平静を保つためにロンドンのエア・スタジオにこもります。そして、マーティンやデニーと共に新曲「レインクラウズ」に取り組んだ後(ジョンの訃報を伝えるオノ・ヨーコからの電話があったのはこの時)、ジョンの思い出話に涙を流しました。スタジオを出た時、大勢のマスコミにコメントを求められたポールは放心状態で、たった一言「ひどいことだ(It's a drag, isn't it?)」と返すのがやっとでした。ジョンの死に計り知れないショックと恐怖を覚えたポールは年内すべての作業を放棄し、公の場に一切姿を見せませんでした。
【アルバム制作】
年が明けるとニュー・アルバムはポールのソロ・アルバムとして仕切り直され、ジョージ・マーティンを続投してレコーディングが再開されます。ポールは後年、当時の心境を「1人で音楽を作るのも、特定のグループでやるのも両方ともやめたかった」と回想していますが、今回は曲ごとに最適なミュージシャンを考え流動的な編成で録音してゆくという、ポールのキャリア史上初の手法を取り入れることにしました。1981年1月にサセックス州のパーク・ゲート・スタジオでデニーと1・6・8などを録音後、2月からは舞台を西インド諸島のモントセラト島に移します。そこにはマーティンが1979年に設立したエア・スタジオ・モントセラトがあり、ジョンの死後しつこく追い続けてくるマスコミなど世間の目が届かない場所でアルバム制作に集中し、同時に豊かな自然に囲まれて休暇も取りたかったポールにはうってつけだったからです。こうして約1ヶ月(2月1日〜3月3日)に及ぶ滞在中、辺境の地・モントセラト島にポールの招きで豪華なアーティストが相次いで訪れました。
白人と黒人の平等を歌った12を書き上げていたポールは、「白人代表」の自分と共演する「黒人代表」としてスティービー・ワンダーを指名します。デモを聴いたスティービーは快諾しますが、時間に非常にルーズな性格が災いして、彼をモントセラト島に呼んでセッションにこぎつけるまでが大変だったとのこと。しかし結果は完璧で、12を2人で演奏・デュエットしたほか、4という共作曲も生まれました。'50年代にロカビリーの名曲を数多く世に送り出し、ポールにとっては永遠のアイドルであるカール・パーキンスは9でポールとデュエット。島での温かいもてなしに感動したカールは「マイ・オールド・フレンド」という曲を書きます(これまたポールとのデュエットで1996年に発表)。また、『バラの香りを』が完成したばかりのリンゴもやって来て2でドラムスをたたいています。ビートルズ解散後、ポールの作品に元ビートルが参加するのはこれが初めてのことでした。他にも、ドラマーとしてデイヴ・マタックスとスティーヴ・ガッドが、ベーシストとしてジャズ界からスタンリー・クラークが招待されています。モントセラト島では3・7・11なども取り上げられました。
その後はロンドンのエア・スタジオでオーバーダブなどを続けますが、4月27日にはデニーがウイングスからの脱退を表明しています。デニーはモントセラト島にも同行したものの、ポールと口論になり先に帰国していました。また、ジョンの事件で神経質になっていたポールがライヴ活動に消極的だったことにしびれを切らした、という側面もありました。結成以来メンバーであり続けたデニーの脱退によって、ウイングスは事実上消滅します。新たなグループを結成するつもりのなかったポールはソロ・アルバムをじっくり時間をかけて仕上げることにし、年内いっぱいをその作業に費やします。5・10はこの時期の録音です。一方、4のオーバーダブでドーキングのストロベリー・スタジオ・サウスを使用したことが縁で、所有者のエリック・スチュワート(10cc)が実に7曲でコーラスを入れていますが、エリックの存在はやがて'80年代のポールには欠かせないものとなってゆきます。1982年3月にようやくアルバムは完成し、一連のセッションでは20曲以上もの新曲が録音されました。うち12曲がアルバムに収録されることとなり、収録漏れになった曲のうちマイケル・ジャクソンとの共演を含む6曲は次作『パイプス・オブ・ピース』に回され、「レインクラウズ」「アイル・ギヴ・ユー・ア・リング」「コアラへの詩」の3曲はシングルB面に落ち着きます。
アルバム・ジャケットの背景を描いたのはブライアン・クラーク(後年のアルバム『フラワーズ・イン・ザ・ダート』のジャケットも手がける)で、赤と青の2色でアルバム・タイトル『タッグ・オブ・ウォー』(=綱引き)に込められた二元的対立を表現。その背景上にリンダが撮影したポールの姿が重ねられています。アートワークはさらに、デザイナー・チームのヒプノシスとシンクの協力を得ています。インナー・スリーブには各曲の歌詞と演奏者クレジットが印刷され、同じくリンダによるポールの写真(室内で書き物をしている)も載っています。
『Tug Of War』『Pipes Of Peace』セッション早見表
【発売後の流れ】
収録曲の中から、まず12が先行シングルとして発売されました(1982年3月)。ジョンの死後初となるポールの新曲である上に、スティービー・ワンダーとの夢の共演とあって大きな注目を集め、英国で3週連続・米国では7週連続で1位の座に君臨する大ヒットを記録しました。ポールが英国・米国双方でチャートを制したシングルはビートルズ解散後初めてという快挙であり、スティービーにとってはこの曲が初の全英No.1シングルになっています。その反面、アルバム『タッグ・オブ・ウォー』は英国で2度の発売延期を挟み(当初の発売日は2月15日)4月まで待たされることとなります。そして発売されるや否や、前作『マッカートニーII』から約2年というブランクをよそに様々な話題性に後押しされ、12に続きアルバムでも英国・米国双方で首位に上り詰めました。さらには米国だけで100万枚を売り上げ、英米のみならず(カナダ・日本・西ドイツなど)世界中でNo.1を獲得する大成功を収めました。また、1982年度グラミー賞では最優秀アルバム賞にノミネートされています。絶好調なセールスに評論家たちも「ポール・マッカートニーなら作ることができると誰もが常に知っていた傑作」「ビートルズ時代の作品と同じくらい精巧で最高な出来のアルバム」など次々と賛辞を贈りました。このように、『タッグ・オブ・ウォー』は再び1人になったポールにあまりにも幸先よい滑り出しをもたらしたのです。
アルバムからの第2弾シングルとして2が、第3弾シングルとして1が発売され、前者は米国で10位まで上昇しています。いつもならヒットの勢いに乗ってツアーに赴く所ですが、ウイングスを失ったばかりのポールにその予定はありませんでした。6月23日には2のプロモ・ヴィデオ撮影のためリンダやリンゴ、エリック・スチュワート、ジョージ・マーティンとエルストリー・フィルム・スタジオに再集結し、ファンクラブの会員を前にミニ・ライヴを開催しているものの、「今はレコーディングに没頭してるから(ライヴは)考えてないんだ」と当時語っていたように、ステージに本格復帰するまでにはこの後数年を要することとなります。こうしてポールは、'80年代のほとんどをスタジオでのアルバム制作に費やしてゆきます。
【管理人の評価】
『バンド・オン・ザ・ラン』『ヴィーナス・アンド・マース』といった'70年代の代表作に匹敵する大成功を受け、今なお「'80年代ポールの名盤」として親しまれている『タッグ・オブ・ウォー』ですが、その一番の功労者はやはりプロデューサーのジョージ・マーティンでしょう。ポールのセルフ・プロデュースではどうしても「捨て曲」が散在したりアレンジの詰めが甘かったりしがちな所を、マーティンの知見と手腕によって洗練されたアルバムに昇華しているのです。ポールとマーティンの相性は無論ビートルズ時代から折り紙付きで、結果的にはポール本人が認めるように「ビートリーな」(=ビートルズっぽい)要素を随所で感じられる仕上がりになっています。特に、シンプルな音から徐々に音の層が増えていって、最後は華やかに締めくくるという、後期ビートルズの楽曲によく見られた構図が復活しているのが印象に残ります(1・2・8など)。
曲によって演奏者を変えるという試みも成功していて、その道のプロが集まっての息の合った演奏は極めてクオリティが高いです。そこに2人の豪華ゲスト(スティービー・ワンダーとカール・パーキンス)とのデュエット・ナンバーを挟みつつもアルバム全体の統一感を崩していないのは、やはりマーティンのきめ細かなアレンジに加えて、穏やかでゆったりとした音作りの曲が大半という点が秘訣でしょう。また、リンダとエリック・スチュワートによるコーラスがデュエット・ナンバーを除くほとんどの曲にフィーチャーされている点も、地味ながらアルバムのカラーを支えています。ウイングス解散によりデニー・レインがポールから離れてゆくのと前後して、エリックがその後継として機能しているのは興味深いです。
そして何より特徴的なのが詞作面です。人生を綱引きに例えたタイトル・ソング1を筆頭に、このアルバムの収録曲には二元的対立(男と女、白人と黒人、戦争と平和など2つの対立するもの)を問題提起したような歌詞が多く含まれ、これまでになく社会性を帯びているからです。ウイングスの頃はプライベートなラヴ・ソングが主な持ち味でしたが、ここではより普遍的で人類共通の悩みや希望をテーマに、どうすれば様々な対立を調和させることができるのか問いかけています(その答えは次作『パイプス・オブ・ピース』でポールなりに示されることに)。男女間の恋愛を純粋に歌った曲はなんと4だけであり、ここまでラヴ・ソングがないアルバムはポールの全キャリアを見渡しても珍しいです。音楽活動でも平和運動でも社会に大きな影響を与え続けた親友・ジョンの死に促されたかのようなこの変化は、その後のポールがしばしば発表する一連のメッセージ・ソングにつながってゆくことを考えると重要な転機と言えます。
以上のように'70年代の作風とは一線を画したこのアルバムには、甘いラヴ・バラードや激しいロックンロールはありません。しかしその代わりに、'80年代初頭に訪れた幾多の困難を乗り越えて一段大人になったポールの成長を、じっくり練られたビートリーなサウンドと、前向きな人生観が表れた詞作を通して存分に実感することができます。逆境に置かれた時に名盤・名曲を生み出すことが多いポールですが、本作には大ヒットした12のほかにもシングル曲1・2から6・8といったアルバム・ソングに至るまでファンの間で人気の高い名曲・佳曲がぎっしり詰まっています。さらには、ジョンへの追悼歌で最近のコンサートではおなじみの5も収録されています。こんなに充実した内容で買わないわけにはいきません。'80年代ポールのスタジオワークで最初に聴くべき1枚であり、これからポールのソロを聴こうと考えている方にもお勧めです。ポールの作品に『アビイ・ロード』や『バンド・オン・ザ・ラン』のような高い完成度を求めている方、落ち着いたサウンドが好みの方には特にお勧めです。ちなみに、私は2・6〜9が特に好きです。
なお、このアルバムは2015年にリマスター盤シリーズ「ポール・マッカートニー・アーカイブ・コレクション」の一環としてヒア・ミュージックから再発売されました。全曲が新たにミックスし直されたほか、初登場の未発表音源がたっぷりのボーナス・ディスクが追加され、関連映像を収録したDVDも付いてくるので(一部仕様のみ)、今から買うとしたらそちらの方がお勧めでしょう。解説はこちらから。
アルバム『タッグ・オブ・ウォー』発売30周年記念!収録曲+aを管理人が全曲対訳!!
1.タッグ・オブ・ウォー
人生を綱引きに例え、二元的対立が存在する現状と、人類のあらゆる対立が解消されるであろう明るい未来への希望を歌ったメッセージ・ソング。オーケストラを交えたバラードだが、中盤は力強いエレクトリック・アレンジに切り替わる。イントロの綱引きの掛け声は、ハダースフィールドで行われた実際の綱引き大会の模様を録音したもの。エンディングには、次作『パイプス・オブ・ピース』に収録される「アヴェレージ・パーソン」の一節が登場する。
1982年9月にアルバムからの第3弾シングルとして発売されたがヒットしなかった(英国・米国共に最高53位)。シングルでは綱引きの掛け声がオミットされ、次曲「テイク・イット・アウェイ」とクロスフェードしない。プロモ・ヴィデオは2種類存在し、ポールとリンダが一緒に歌うシーンに綱引きや近未来を想起させる様々な映像が挟まれるという内容のものが有名。ベスト盤『夢の翼〜ヒッツ・アンド・ヒストリー〜』にもシングル・ヴァージョンが収録されている。
2.テイク・イット・アウェイ
前曲「タッグ・オブ・ウォー」と連結されて始まるのは、ポールらしいキャッチーなポップ・ナンバー。元々はリンゴ・スターに贈る予定だった曲で、リンゴとスティーヴ・ガッドによるツイン・ドラムスをフィーチャーしている(左がスティーヴ、右がリンゴ)。さらにジョージ・マーティンがエレクトリック・ピアノで、リンダとエリック・スチュワートがコーラスで参加するという贅沢なラインアップである。曲が進むにつれどんどん賑やかになってゆくビートリーな構成で、後半は派手なブラス・セクションがいいアクセントになっている。
1982年6月にアルバムからの第2弾シングルとなり、英国で最高15位・米国で最高10位を記録。前曲とクロスフェードせず、フェードアウトがアルバムより早いシングル・ヴァージョンはベスト盤『夢の翼〜ヒッツ・アンド・ヒストリー〜』にも収録。プロモ・ヴィデオには前述のミュージシャンが総出演し、ビートルズをほうふつさせるバンドの成功物語が描かれる(マネージャー役を俳優のジョン・ハートが演じた)。このアルバムで私が一番好きな曲です。
3.サムボディ・フー・ケアーズ
ポールが弾くスパニッシュ・ギターや、パン・パイプの音色が印象的なAOR風の曲。モントセラト島に到着してから、日曜の午後に書いたとポールは語っている。ベースはスタンリー・クラーク、ドラムスはスティーヴ・ガッド。「見捨てる人」もいれば「見守る人」もいると歌われる。どこかウイングス時代のデニー・レイン(この曲ではギター・シンセサイザーを演奏)に似た作風だが、レコーディング中に歌詞の解釈をめぐってポールとデニーの間で激しい口論になったという。
4.ホワッツ・ザット・ユア・ドゥイン?
モントセラト島でのジャム・セッションから生まれたポールとスティービー・ワンダーの共作で、リード・ヴォーカルも2人で分け合っている。スティービーの嗜好を色濃く反映してファンキーな仕上がり。英国に戻ってから、ロキシー・ミュージックのアンディ・マッケイによるリリコンと、リンダとエリックやワンダーラヴ(スティービーの女性バックコーラス・グループ)によるコーラスが加えられた。終盤にはビートルズの「シー・ラヴズ・ユー」が引用されている。ポールの公式ニュースレターのタイトルはこの曲が由来。2005年のリミックス・アルバム『ツイン・フリークス』には超高速ヴァージョンが収録されていて、グルーヴ感も倍増でとっても楽しいです。
5.ヒア・トゥデイ
最愛の親友でありライバルでもあったジョン・レノンに向けて素直な気持ちを歌ったバラード・ナンバー。「あまりにも身近なことだから、ジョンのことは歌にしないと思っていた。なのに、ふと気がついたらギターを持って曲を作っていた」とポール。いろんな時期のジョンとの「対話」をテーマに、「もし君がここにいたなら君は何て答えるだろう?」と問いかける。「僕らが涙を流したあの夜(the night we cried)」とは、ビートルズ時代にコンサート・ツアーの道中立ち寄ったキーウェスト(米国フロリダ州)で泣きながら飲み明かした日のこと。
ポールによるアコースティック・ギター弾き語りにストリングス・カルテットのみが加わるというアレンジはビートルズの「イエスタデイ」を思わせるが、あえて似せたとポールは説明している。2002年の「ドライヴィング・USA」ツアーで初めて人前で演奏して以来、ジョンへのトリビュートとしてポールのコンサートでは定番となっている。ベスト盤『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』にも収録。エモーショナルで、思わず涙が滲んでしまう名曲です。アナログ盤はここまでがA面。
6.ボールルーム・ダンシング
かつての「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」の系譜を継ぐオールド・スタイルのロックンロール。1980年夏〜秋にウイングスのリハーサルでも試されていた曲で、デニーがエレキ・ギターで参加している。それ以外のベーシック・トラックはすべてポールによる多重録音。歌詞は自らの青年時代を追憶しながら書かれ、ここでも「子供」と「大人」、「過去」と「現在」という対立が登場する。ポールは1984年の自主制作映画「ヤァ!ブロード・ストリート」で、リンゴやジョン・ポール・ジョーンズらを迎えてこの曲を再演している。
7.ザ・パウンド・イズ・シンキング
ポールが初めて経済問題に触れた曲。「英国病」とまで呼ばれた慢性的な不景気を反映して「ポンドは低迷している」というタイトルだ。歌詞には各国の通貨が登場し、円に関しては「高止まりしているが全然驚きに値しない」と歌われる。フォーク・ソング風の曲調で、アコースティック・ギターはポールとデニー、ベースはスタンリー・クラーク。ドラマーはなぜかクレジットされていない。変拍子を巧みに導入し、後半部分は「サムシング・ザット・ディドント・ハプン」という未完成の曲を組み込んだ。アルバムで最も目立たず渋いというのに私がやけにお気に入りの1曲。どこかロシア民謡っぽいメロディ・演奏・歌い方が特にツボにはまっています。
8.ワンダーラスト
ピアノを中心に据えた雄大なバラードで、ファンの間で人気の高い名曲。「心のラヴ・ソング」のように、同じコード進行を持つ2つのメロディが順番に登場し、終盤にその2つが同時に歌われる。タイトルは、ヴァージン諸島でウイングスのアルバム『ロンドン・タウン』を制作した際にポールが家族と宿泊していたヨットの名前に由来する。当初別のヨット(エル・トロ号)を使用していたポールは、薬物の持ち込みをめぐって船長と大喧嘩となりワンダーラスト号に宿を移したが、その時の心情を歌にしたものである。歌詞中でワンダーラスト号は「憂鬱な気分から救ってくれる自由の象徴」として描かれている。
大半の楽器はポールが担当し、デニーがベースで、エイドリアン・シェパードがドラムスで参加。コーラスはポール、リンダ、エリックの3人。また、ジョージ・ハリスンにギターを弾いてもらう予定でポールが直々に依頼したが、実現しなかった。フィリップ・ジョーンズ・ブラス・アンサンブルによる演奏が色を添える。一方、映画「ヤァ!ブロード・ストリート」で再演した際にはリンゴのドラムスをフィーチャーしている。2014年にはブライアン・ウィルソンがカヴァー・ヴァージョンを発表した。ベスト盤『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』にも収録。
9.ゲット・イット
ポールがカール・パーキンスとの共演のために書き下ろし、モントセラト島で2人きりでレコーディングされたデュエット・ナンバー。カールはエレキ・ギターを弾き、それ以外の楽器はポールによるもの。太く貫禄のあるカールと、甘くせつないポールの声質の違いが好対照を成している。人生の「成功」と「失敗」を歌う楽しいロカビリーだ。シングル「タッグ・オブ・ウォー」のB面でもあった。
10.ビー・ホワット・ユー・シー
前曲のカールの笑い声とクロスフェードして始まる小曲。ポールのヴォーカルはヴォコーダーを通しており幻想的に響く。「あなたのなりたかったものは/あなたが今見ているもの」という哲学的な一節が味わい深い。レコーディングは収録曲中最後に行われた。
11.ドレス・ミー・アップ・アズ・ア・ラバー
珍しくフュージョン・スタイルに挑戦した曲で、大半をファルセットで歌っている。デイヴ・マタックスがドラムスで、デニーがエレキ・ギターとシンセサイザーで、ジョージ・マーティンがエレクトリック・ピアノで加わる。アレンジが固まるまでには相当苦労したようで、リマスター盤『タッグ・オブ・ウォー』のボーナス・トラックに収録された3種類のデモでは試行錯誤がうかがえる。12インチシングル「テイク・イット・アウェイ」のB面でもあった。
12.エボニー・アンド・アイボリー
白人と黒人がピアノの鍵盤のように調和するよう願った曲で、コメディアンのスパイク・ミリガンの発言にインスパイアされて書かれた。「白人代表」のポールと「黒人代表」のスティービーがデュエットし、演奏やコーラスも2人だけで済ませている。プロモ・ヴィデオでも2人の共演が実現したが、双方のスケジュールが合わなかったため別々に撮影されたものを合成技術で上手く編集している。デュエット・ヴァージョンと同じ演奏を使ってポールだけが歌うソロ・ヴァージョンも制作され、12インチシングルに収録された(ソロ・ヴァージョンのプロモ・ヴィデオも存在する)。
アルバムからの先行シングルで、英国・米国共にNo.1を獲得する大ヒットとなり、米国・ビルボード誌では年間チャート4位を記録している。'80年代のデュエット・ブームもこの曲のおかげであろう。ポールは1989年〜1990年の「ゲット・バック」ツアーでこの曲をヘイミッシュ・スチュアートとのデュエットで披露したが、ロサンゼルス公演(1989年11月27日)のアンコールでは客席にいたスティービーが飛び入り参加した。また、ポールの第3回ガーシュウィン賞受賞を記念したコンサート(2010年6月2日)でも、ポールとスティービーが再度揃って米国・オバマ大統領(当時)を前に歌った。『オール・ザ・ベスト』『ザ・グレイテスト』『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』の各ベスト盤にも収録。