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このアルバムの収録曲中1〜11はオリジナル版に収録されていた曲で、12〜14はCDでのボーナス・トラックです。初CD化及び、「ザ・ポール・マッカートニー・コレクション」シリーズでの再発売(1993年)の際には、このアルバム発売の2年前にあたる1974年に録音されシングルに収録された12・13・14(12・13のクレジットは「ザ・カントリー・ハムズ」名義、14のクレジットは「ポール・マッカートニー&ウイングス」名義)の3曲がボーナス・トラックとして追加されました。
収録曲のうち、ジミー・マッカロクとコリン・アレンの共作である5と、デニー・レインが書いた8を除く全曲がポール本人による作曲で、ポールとリンダの共作名義となっています(1976年当時は単に「McCartney」とクレジットされていた)。曲想やアドバイスを与えてくれるリンダの多大な貢献にポールは深く感謝しており、アルバム『ウイングス・ワイルド・ライフ』に始まりこのアルバムが発売された1976年頃までの自作曲をすべてリンダとの共作名義で発表しています。
【時代背景】
1975年に入り、ウイングスは結成当時のメンバーであるポール、リンダ、デニー・レインの3人にジミー・マッカロクとジョー・イングリッシュが新たに加わり、再び5人編成になりました。そして、この5人で完成させたアルバム『ヴィーナス・アンド・マース』は世界中で400万枚を売り上げるヒットを記録しました。この勢いに乗ってウイングスは2年ぶりとなるコンサート・ツアーに赴きます。約1年かけ、最終的に計11ヶ国で全65公演をこなすこととなるグループ初のワールド・ツアーが始まったのです。まず手始めに地元・英国で全13公演(1975年9月9日〜9月23日)を開催。4人組のブラス・セクションを配し、『ヴィーナス・アンド・マース』収録曲やビートルズ・ナンバー5曲を含む新たなセットリストは早速話題を集めました。その好評ぶりに手ごたえを得た所で、続いて初上陸となるオーストラリアで全9公演(1975年11月1日〜11月14日)を行います。ここでも大歓迎を受け成功のうちに日程を終えると、次は1966年にビートルズとして訪れて以来の日本公演が控えていましたが・・・これは中止となってしまいます(11月19日より日本武道館で3日連続公演が予定されていた)。大麻不法所持の前科を重く見た日本の法務省が、直前になってポールの入国を拒否したためでした。落胆する日本のファンに向けて、ポールは「ブルーバード」の弾き語りを含むヴィデオ・メッセージを送っています。11月15日、ポールは日本の代わりにハワイに向かい、リンダや子供たちと一緒にしばらく休暇を取った後帰国し、年末はスコットランドでゆっくり過ごしました。
この頃ポールは、ウイングスの最大の目標として全米ツアーに狙いを定めていました。結成以来何かにつけてビートルズと比較されてきた中で、ビートルズの幻影を払拭しウイングスのライヴ・バンドとしての実力を世界中に知らしめるには、常に世界の音楽シーンを牽引し続ける米国での成功が最も効果的だと考えたのです。しかし、それだけにポールは慎重に事を進めます。かつての仲間ジョージ・ハリスンが1974年の全米ツアーを失敗させ、その後の活動に影を落としていたことも念頭にありました。まずは観客動員数の少ない英国やオーストラリアのツアーで反応をうかがい、来る全米ツアーに向けて問題点を洗い出してゆきました。そしてハワイでの休暇中、より充実したステージにするには盛り上げ役となる強力な新曲が必要だという結論にポールは至ります。それはほどなくニュー・アルバムの構想へとつながってゆきます。
【アルバム制作】
コンサート・ツアーの合間を利用して、ポールは新曲作りに励みます。例えば7はオーストラリア滞在中に、6・9はハワイでの休暇中に書かれました。また、後年発表されることとなる「たそがれのロンドン・タウン」「ガールズ・スクール」「子供に光を」といった曲もこの時期に書き始められています。ツアーの日程が立て込んでいたため、レコーディング・セッションは1975年いっぱいは数曲のみ散発的に行われるにとどまりました。8月にはロンドンのオリンピック・スタジオで(結局はボツになった)4の初期テイクが、10月には同じくロンドンのアビイ・ロード・スタジオでトニー・クラーク(ウイングスのデビュー作『ウイングス・ワイルド・ライフ』を担当)をエンジニアに迎え4のリメイク・ヴァージョンと2が、それぞれ録音されています。
アルバムのための本格的なレコーディングが始まったのは年明けの1976年1月で、春には再びツアーに出る予定だったので約6週間という短期間のうちに行われました。とはいえ「決して急いだわけじゃない」とポールは語ります。ラゴス、ナッシュビル、ニューオーリンズとここ数年は海外でのセッションが続いたウイングスでしたが、今回は時間の制約があったため全曲が通い慣れたアビイ・ロード・スタジオで録音されました。メンバーで唯一英国を本拠にしていなかったジョーは単身でロンドンに渡り、当初はポールとリンダの自宅に一緒に住まわせてもらったとのこと。連日のコンサートでバンドの一体感は高まり、お互いの信頼関係も最高の状態で臨んだことで、レコーディングはスムーズに進みました。サウンド・エンジニアは、フランク・ザッパやジェフ・ベックなどのアルバムも手がけたピート・ヘンダーソンが担当。ブラス・セクションが必要な曲(1・6・8・10)では、ウイングスのワールド・ツアーで一緒に演奏していた4人(トニー・ドーシー、ハウイー・ケイシー、タデアス・リチャード、スティーヴ・ハワード)が参加し、華を添えます。こちらも、この段階では結束を固めタイトなユニットに成長していました。また、ポールの依頼で2曲のストリングス・スコア(2・11)をフィアチュラ・トレンチが書き下ろしています。2月中には大抵の作業が完了し、セッションで取り上げた曲がほぼそのままアルバムに収録されることとなりました。
アルバム・ジャケットはポールのアイデアで、ロンドンにあるレスター・スクエア・シアターという劇場の大きな正面看板を一晩借りて、アルバム・タイトルの文字を配置したもの(ちなみに、当時は映画「ピンク・パンサー2」の看板が掲示されていた)。リンダが撮影した写真を、前作『ヴィーナス・アンド・マース』のアートワークを手がけたオーブリー・パウエル率いるデザイナー・チームのヒプノシスが加工しました。裏ジャケットには写真家のクライヴ・アロウスミスがウイングスの各メンバーを多重露光で撮った写真が採用されています。インナー・スリーブの片面にはレコーディング・セッション中の写真の寄せ集め(撮影はリンダ)が、もう片面にはハンフリー・オーシャンによるイラスト(ロバート・エリスが撮影したウイングスのコンサート写真を使用)が印刷されています。後者のイラストで左から3番目に描かれている人物はロック・ミュージシャンのイアン・デューリーで、2001年のトリビュート・アルバムでポールは彼の「アブラカダブラ」をカヴァーしています。
『Wings At The Speed Of Sound』セッション早見表
【発売後の流れ】
アルバムを完成させたウイングスは再びステージに戻ってきます。計4ヶ国・全5公演の短いヨーロッパ・ツアー(1976年3月20日〜3月26日)です。昨年より多い15,000人規模の会場で、完成したばかりのアルバムから4曲(1・4・6・8)もセットリストに新規投入したのは、明らかに全米ツアーを意識してのことでした。そのヨーロッパ・ツアーの最中、『スピード・オブ・サウンド』は発売されます。全米ツアーの日程は年初に発表され、本来であればアルバム発売直後の4月8日より始まる予定でしたが、ジミーがシャワー中に転んで手を骨折したため1ヶ月延期になってしまいました。それでもウイングスには勢いがありました。ポールはこの機会に問題点の改善を今一度行い、リハーサルを入念に重ねます。うれしいことに、アルバムのセールスはその間も好調に推移します。英国では惜しくも2位止まりでしたが、年間チャートで4位まで上昇。そして米国では4月24日に首位に躍り出た後、計7週にわたりNo.1を記録しました(年間チャート3位)。これに拍車をかけたのがアルバムからの第1弾シングルとなった6で、米国で計5週にわたり1位の座を独占し、さらに年間チャートでも見事1位に輝く異例の大ヒット・ナンバーとなりました。
そして5月3日、テキサス州フォートワースを皮切りに「ウイングス・オーヴァー・アメリカ」と呼ばれる全米ツアーがいよいよ始まります。最終日・6月23日のロサンゼルス公演に至るまでウイングスは米国20都市(&トロント)で全31公演を敢行しますが、チケットはほとんどの公演で数時間のうちに売り切れ、マディソン・スクエア・ガーデンやカウ・パレスなど巨大なアリーナやスタジアムを連日大勢の観客が埋め尽くしました。6月10日にキングドームで行われたシアトル公演では67,000人あまりを集め、屋内コンサートの観客動員としては当時の世界最高記録を樹立しています。ファンのみならず評論家たちもツアーを絶賛し、「感動的に洗練されており、それでいて活力に満ちている」「史上最高のロックンローラーの地位は確定した」といった言葉が紙面を飾りました。著名人も多く訪れ、ロサンゼルス公演ではアンコール後にリンゴ・スターが登壇し、ポールに花束を贈るという場面も。こうして、合計60万人近い観客を動員した全米ツアーは大成功に終わり、ウイングスはビートルズとは違った形で世界を制覇したのでした。なお、ツアー終了後にはアルバムからの第2弾シングルとして1が発売され、全英2位・全米3位を記録しています。
【管理人の評価】
このアルバムの最大の特徴は、やはりポール以外のメンバーが歌う曲の多さでしょう。収録曲11曲のうち、ポールがリード・ヴォーカルを取るのは半数の6曲のみ。そして残る5曲は他のメンバーのヴォーカル曲です。内訳を見ると、デニーが2曲(2・8)、ジミーが1曲(5)、ジョーが1曲(9)、リンダまでもが1曲(7)で歌い、当時のメンバー全員が最低でも1曲でリード・ヴォーカルを取るようにアルバムが構成されています。5・8に至ってはポールが書いた曲でもありません。このように、いわば「ウイングス民主主義」のような構成となっているのは「ウイングスは僕だけのバンドじゃない」というポールの主張が色濃く反映されたためでした。ウイングスをポールのワンマン・バンドではなくメンバー全員が主役のバンドにしようという試みは、デビュー当時から絶えず続けられてきました。コンサートではリンダやデニーが歌う機会が必ず与えられていましたし、セカンド・アルバム『レッド・ローズ・スピードウェイ』は当初ポール以外のメンバーのヴォーカル曲も多く収録される予定でした。その時はレコード会社の反対でかないませんでしたが、前作『ヴィーナス・アンド・マース』ではデニーとジミーのヴォーカル曲を1曲ずつ収録し、ワンマン・バンドからの脱却に一歩踏み出していました。『スピード・オブ・サウンド』はそんな一連の試みの到達点だったのです。
ウイングスが絶頂期を迎えていた最中に発売され、大成功を収めたこのアルバムですが、現在では『バンド・オン・ザ・ラン』『ヴィーナス・アンド・マース』といった名盤と比べるとイマイチ人気のない1枚になってしまっています。前述したようにポールのヴォーカル曲が少なく、ポールの歌声を聴きたいリスナーの期待に添えきれていない面があるからです。この点は発表当時から賛否両論で、「ウイングスの魅力が十分に伝わってくる」という評価がある一方で、「偉大なるポップスの作曲家による謎に満ちた何となく及び腰の珍品」と皮肉る向きもありました。しかし、「ポールが歌っていないから」と切り捨ててしまうにはもったいない曲があるのも事実です。例えば力強いロック・ナンバーの8はメロディ・演奏・アレンジ共に冴え、デニーがウイングス在籍中に書いた曲では最も高い人気を集めています。ジミーが書き歌うブルージーな5ではサイケデリックの妙を味わえますし、リンダやジョーのためにポールが書き下ろした7や9もメンバーの個性を上手く捉えることに成功しています。このアルバムを聴けば、絶頂期ウイングスの各メンバーの歌声のみならず性格までも手に取るように分かってしまう・・・と言っても過言ではないほど、ウイングスというグループを体現しています。
ポールのヴォーカル曲も当然素晴らしく、大ヒットした1・6はもちろん、熱いシャウトで圧倒する4から崇高なピアノ・バラードの11まで多彩な表情で攻めてきます。ツアーを重ねたバンドのノリは最高で、程よい緊張感と余裕を感じさせる演奏を貫き通します。『ヴィーナス・アンド・マース』ではオーバーダブやエコーの効いたミックスがきらびやかでしたが、ここでは余計なものはそぎ落とされ、小粋でさっぱりした印象を受けます。ストリングスやブラス・セクションの使用も限定的です。また、当時台頭しつつあったディスコ・ミュージックを意識してベースを前面に出したり、プログレを意識して曲間をハーモニウムのリンクで埋めたり(3〜4、8〜9)と実験的な要素も垣間見せています。
本来の意図に反して「ウイングス民主主義」が足を引っ張っている感があるのは残念ですが(汗)、ポール・マッカートニーうんぬんを抜きにウイングスというグループを純粋に知るには、メンバー全員のヴォーカル曲を収録した本作はうってつけでしょう。『バンド・オン・ザ・ラン』や『ヴィーナス・アンド・マース』を聴いてデニーやジミーに興味を持った方にはさらにお勧めです。1・6以外はやや地味な顔ぶれですが、ポールならではの明るく軽快なポップ・サウンドが主流なので、肩の力を抜いて楽しい気分で聴きたい時にもお勧めです。一方、これからウイングスやポールの作品を聴こうと考えている方には、ポール分が少なめなのでハードルが高いかもしれません・・・。ちなみに、私は1・4〜8(ボーナス・トラックだと12)が特に好きです。
なお、このアルバムは2014年にリマスター盤シリーズ「ポール・マッカートニー・アーカイブ・コレクション」の一環としてヒア・ミュージックから再発売されました。初登場の未発表音源がたっぷりのボーナス・ディスクが追加されているほか、関連映像を収録したDVDも付いてくるので(一部仕様のみ)、今から買うとしたらそちらの方がお勧めでしょう。解説はこちらから。
アルバム『スピード・オブ・サウンド』発売40周年記念!収録曲+aを管理人が全曲対訳!!
1.幸せのノック
ポールらしいキャッチーな「お遊び歌」。単純なメロディと歌詞の繰り返しだが、ブラス・セクションやドラムロールなどのアレンジの変化で聞かせる。「ドアを開けて彼らを入れておやりよ」と歌われるパーティー・ソングで、歌詞にはリンダ(Sister Suzie)、ジョン・レノン(Brother John)、キング牧師(Martin Luther)、エヴァリー・ブラザーズ(Phil and Don)など実在の人物が登場する。冒頭のチャイムは実際にポールの自宅玄関に飾ってあったもの。1976年7月23日に英国で、6月28日に米国でシングルカットされ、英国で最高2位・米国で最高3位。1977年にビリー・ポールがカヴァーしたヴァージョンが全英26位を記録しているほか、2002年にはルルがこの曲をベースにした「インサイド・シング」という曲でポール本人とデュエットしている。
ウイングスは1976年のワールド・ツアー(ヨーロッパと米国)でこの曲を演奏した。また、ウイングス解散後も1989年〜1990年の「ゲット・バック」ツアー(一部公演のみ)、2002年〜2003年の一連のツアー、2010年〜2011年の「アップ・アンド・カミング」ツアー、2011年〜2012年の「オン・ザ・ラン」ツアーなどで取り上げている。『ウイングス・グレイテスト・ヒッツ』『オール・ザ・ベスト』『夢の翼〜ヒッツ・アンド・ヒストリー〜』『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』の各ベスト盤にも収録。退屈に思う人も多いかもしれませんが(汗)私は大好きです。アウトロで薄く聞こえるデニー・レインの歌が面白いと思います。
2.ザ・ノート・ユー・ネヴァー・ロウト
ポールがデニーのために書き下ろした曲で、リード・ヴォーカルはデニー。哀愁漂うワルツのリズムはムーディー・ブルース時代のヒット曲「ゴー・ナウ」をほうふつさせる。レコーディングは1975年10月。フィアチュラ・トレンチが手がけたストリングスにジミー・マッカロクのギター・ソロが絡み合う力強い間奏が聴き所。デニーは後年セルフ・カヴァーを発表しているが、そこでは枯れた味わいをより生かしたアコギ弾き語りに仕上げている。当時の邦題は「君のいないノート」。
3.僕のベイビー
リンダのことを歌ったラヴ・ソング。ポップな曲調ながら音作りは極めてシンプルで、ビートルズ時代の「ハロー・グッドバイ」を質素にしたかのよう。多重録音されたベースが前面に押し出されている。リンダに捧げたクラシック・アルバム『マイ・ラヴ〜ワーキング・クラシカル』(1999年)にはストリングス・カルテット用にアレンジされたヴァージョンが収録されている。
4.愛の証し
前曲「僕のベイビー」とはハーモニウムのリンクで連結されている。ポール、リンダ、デニーによる美しいコーラスでゆったりと始まるが、突如としてハードロックに切り替わる。気迫あふれるタイトなバンド・サウンドにのせてポールがシャウトしまくるのが実にかっこいい。イントロのメロディが復活してテンポ・アップするエンディングは圧巻。主なレコーディングは1975年10月に行われ、1976年1月にイントロとエンディングが追加で録音された。レッド・ツェッペリンのジョン・ボーナムがドラムスをたたいた初期テイクがリマスター盤『スピード・オブ・サウンド』のボーナス・トラックに収録されている。
シングル「幸せのノック」のB面でもあった。ライヴ映えする曲で、1976年のワールド・ツアー(ヨーロッパと米国)ではコンサート終盤の盛り上げ役となった。このアルバムで私が一番好きな曲です。他の男と一緒になった恋人に「気をつけな」と警告する内容の歌詞が特にお気に入りだったりします。
5.ワイノ・ジュンコ
前作『ヴィーナス・アンド・マース』収録の「メディシン・ジャー」同様、ジミーがウイングス加入前に在籍していたストーン・ザ・クロウズのドラマー、コリン・アレンと共作した曲。リード・ヴォーカルはジミー。邦題の「ワイノ・ジュンコ」は日本人の名前みたいだが、実際は「ワイノ・ジャンコ」が正しい発音で、“Wine Junky(酒飲み野郎)”のもじりである。タイトルが示すようにアルコールやドラッグの中毒者を生々しく描いた詞作だが、ジミーは1979年にドラッグの過剰摂取が原因で26歳という若さで命を落としている。サイケデリックな音作りが特徴で、コーラスにヴォコーダーが使用されている。アナログ盤はここまでがA面。
6.心のラヴ・ソング
クールさを重視するあまりバラードやラヴ・ソングが敬遠されていた当時の風潮に対し、「バカげたラヴ・ソングのどこが悪い?」と真っ向から反論した超強力なポップ・ナンバー。同じコード進行を持つ3つのメロディが登場し、それらが順番に登場した後、終盤にはポール、リンダ、デニーによる3声のコーラスとして同時に歌われるという、緻密に計算された構成が展開される。他にもポールが弾く歌うようなベース・プレイや、間奏などでのブラス・セクションとストリングス(後者のスコアはトニー・ドーシー)のアレンジなど、どれを取っても名曲と呼ぶにふさわしい。
1976年4月30日に英国で、4月1日に米国でシングルカットされ、英国で最高2位・米国で計5週にわたり1位。米国・ビルボード誌ではポールにとってビートルズの「抱きしめたい」「ヘイ・ジュード」に続く3度目の年間チャート1位を獲得し、米国におけるウイングス最大のヒット曲となった。ウイングスの全米ツアーを題材としたプロモ・ヴィデオも制作された。ポールは1984年の自主制作映画「ヤァ!ブロード・ストリート」でこの曲を再演している。一方、ライヴでは1976年のワールド・ツアー(ヨーロッパと米国)の後は全く取り上げられていない。『ウイングス・グレイテスト・ヒッツ』『オール・ザ・ベスト』『ザ・グレイテスト』『夢の翼〜ヒッツ・アンド・ヒストリー〜』『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』の各ベスト盤にも収録。
7.クック・オブ・ザ・ハウス
オーストラリア・ツアー中に滞在していた家のキッチンで書かれたロカビリー・ナンバー。リード・ヴォーカルはリンダ。後にベジテリアン向けの料理本も出版する料理名人リンダにふさわしい1曲で、イントロとアウトロにはリンダが料理している時の音が加えられている。ポールは、ビル・ブラックがエルビス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」で使用したウッド・ベースを弾いている。ブラス・セクションはメロトロンによるもの。ウイングスの1979年全英ツアーで、リンダのヴォーカル曲として披露された。シングル「心のラヴ・ソング」のB面でもあった。また、死後に発表されたリンダのソロ・アルバム『ワイド・プレイリー』(1998年)にも収録されている。ノってるじゃないか お前さん!(笑)
8.やすらぎの時
デニーの自作曲でリード・ヴォーカルもデニー。デニーが独力で書き上げた曲がウイングスの作品に収録されるのは初めてのこと(「ノー・ワーズ」はポールとの共作)。ポールはアレンジ面で貢献したほか、うねるようなベース・プレイで曲を引っ張る。間奏のソロは、前半はデニーがムーディー・ブルース時代得意としていたハーモニカを吹き、後半は10ccのメンバーが開発したギター・アタッチメントのギズモが使われている。1976年のワールド・ツアー(ヨーロッパと米国)では、デニーはギターを持たずに熱唱した。デニー自身もお気に入りのようで、ソロ・ライヴでも欠かせない。名曲です。
9.マスト・ドゥ・サムシング
前曲「やすらぎの時」とはハーモニウムのリンクで連結されている。ポールがハワイでの休暇中に書いた曲で、リード・ヴォーカルはジョー。ややトロピカルなポップ・ソングをさわやかな声で歌う。家族と離れてレコーディングに勤しみ、ホームシックになっていた当時のジョーの心情を表したかのような詞作だ。2010年にポールが歌うアウトテイクが発見され話題を呼んだが、現在はリマスター盤『スピード・オブ・サウンド』のボーナス・トラックに収録されている。不自然なエンディングなのが玉に瑕ですね・・・(汗)。
10.サン・フェリー・アン
タイトルは、フランス語で「問題ない/気にしない」を意味する「ca ne fait rien」をもじって女性の名前に見立てたもの。大都市(ポールによるとパリ)をイメージしたジャズっぽいアレンジが施され、ウイングスのツアーに同行したブラス・セクションのメンバー全員がソロを披露している。
11.やさしい気持
ポールのピアノ弾き語りを中心とした美しいバラード。フィアチュラ・トレンチがスコアを書いたストリングス・カルテットと2本のテナー・ホーンが後半フィーチャーされている。バンド・サウンドは間奏のエレキ・ギターのみ。愛の素晴らしさを説いた歌詞も格調高い。ファンの間では隠れた名曲として知られ、ポールと何度か共演したエルビス・コステロも絶賛している。ポールも自信作に挙げていて、ベスト盤『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』に収録している。クラシック・アルバム『マイ・ラヴ〜ワーキング・クラシカル』にはストリングス・カルテットのみのヴァージョンが収録されている。
〜ボーナス・トラック〜
12.ウォーキング・イン・ザ・パーク・ウィズ・エロイーズ
ポールの父親ジェームズが'20年代に書いたインスト・ナンバー。ジェームズの本職は綿貿易商だったが、若い頃はセミプロのジャズ・ミュージシャンとして自宅やパブでよく演奏していた。ジェームズがジャズやクラシックに慣れ親しんでいたことは、ポールの幼少期に多大な影響を与えた。ポールは1974年夏にウイングスのリハーサル・セッションのため米国テネシー州のナッシュビルを訪れ、ギタリストのチェット・アトキンスと出会っているが、彼とお互いの父親について会話していた際この曲の話題になったという。
チェットの提案でレコーディングすることとなり、ナッシュビルで行われたセッションではウイングスのメンバーに加えチェットとその友人フロイド・クレイマー(ピアノ)が参加した。当時のウイングスはポール、リンダ、デニー、ジミーそしてジェフ・ブリトンの5人編成。ポールは現地で仕入れたウォッシュボード(洗濯板)も演奏し、スキッフル・バンドを真似ている。ブラス・セクションが賑やかさに華を添える。曲は1974年10月18日に「ザ・カントリー・ハムズ」の変名名義でシングル発売された(チャート・インせず)。ポールならではの究極の親孝行シングルですね。なお、ジェームズは『スピード・オブ・サウンド』発売直前の1976年3月18日にこの世を去っている。2014年に「ポール・マッカートニー・アーカイブ・コレクション」シリーズで『ヴィーナス・アンド・マース』が再発売された際には、そちらのボーナス・トラックに収録されている。
13.ブリッジ・オーヴァー・ザ・リヴァー・スイート
シングル「ウォーキング・イン・ザ・パーク・ウィズ・エロイーズ」のB面だった曲。こちらもザ・カントリー・ハムズ名義での発売となった。A面と同様ジャズ・アレンジで聞かせるインスト・ナンバーだが、作曲はポールとリンダの2人。1972年頃にギター1本で書き始めたと言われ、1974年夏のナッシュビルでのセッションで完成に至った。ドラムスはジェフ。渋いブラス・セクションのアレンジを手がけたのはトニー・ドーシーで、この曲がポールとの初仕事となった。デモ・テープをそのまま24トラック機に転送するのを見て、トニーはポールのユニークぶりに驚かされたとのこと。当時の邦題は「河に架ける橋組曲」。2014年に「ポール・マッカートニー・アーカイブ・コレクション」シリーズで『ヴィーナス・アンド・マース』が再発売された際には、そちらのボーナス・トラックに収録されている。
14.サリー・G
1974年10月25日に発売されたシングル「ジュニアズ・ファーム」のB面だった曲。1975年2月7日にA・B面を逆にして再発売された時には、米国で最高39位(両A面名義では最高17位)まで上昇した。1974年夏のナッシュビル滞在中に、音楽クラブが多く立ち並ぶプリンターズ・アリーという一角を訪れたことにインスパイアされたポールが、現地で作曲・録音した本格的なカントリー・ナンバー。ゲスト参加したミュージシャンもヴァッサー・クレメンツ(フィドル)、ジョニー・ギンブル(フィドル)、ロイド・グリーン(ペダル・スチールギター)と本格的である。ドラムスはジェフ。
サリー・Gという架空の女性との恋を歌った物語風の詞作だが、当初のタイトルは歌手のダイアン・ガフニーから取った「ダイアン・G」だった(ダイアンが名前の無断使用に立腹して新聞社を相手に訴訟を起こしたことがあったため、タイトルを変更したそうな・・・)。2014年に「ポール・マッカートニー・アーカイブ・コレクション」シリーズで『ヴィーナス・アンド・マース』が再発売された際には、そちらのボーナス・トラックに収録されている。