Paul McCartney/ポール・マッカートニー
McCartney/ポール・マッカートニー
ザ・ポール・マッカートニー・コレクション (1)
 1.The Lovely Linda  ラヴリー・リンダ  0'44"
 2.That Would Be Something  ザット・ウッド・ビー・サムシング  2'38"
 3.Valentine Day  バレンタイン・デイ  1'40"
 4.Every Night  エヴリナイト  2'32"
 5.Hot As Sun/Glasses  燃える太陽の如く/グラシズ  2'06"
 6.Junk  ジャンク  1'54"
 7.Man We Was Lonely  男はとっても寂しいもの  2'57"
 8.Oo You  ウー・ユー  2'48"
 9.Momma Miss America  ママ・ミス・アメリカ  4'05"
10.Teddy Boy  テディ・ボーイ  2'23"
11.Singalong Junk  シンガロング・ジャンク  2'35"
12.Maybe I'm Amazed  恋することのもどかしさ  3'51"
13.Kreen-Akrore  クリーン・アクロア  4'15"
発売年月日:1970年4月17日(英国・Apple PCS 7102)
チャート最高位:英国2位・米国1位
全体収録時間:35'05"
本ページでの解説盤:1995年再発売版(日本・東芝EMI TOCP-3124)
最新リマスター盤:こちら
『ポール・マッカートニー』

 

 このアルバム(以下、『マッカートニー』と表記)の収録曲はすべてオリジナル版に収録された曲です。初CD化及び、「ザ・ポール・マッカートニー・コレクション」シリーズでの再発売(1993年)の際には、ボーナス・トラックは追加されませんでした。全曲がポール本人による作曲ですが、(ビートルズ時代の契約の延長線で)各曲の版権はビートルズ・ナンバーと同じくノーザン・ソングスを経て現在はソニー/ATVが所有しています。

 【時代背景】

 怒涛の勢いで拡大を続けていったビートルズ。しかしマネージャーのブライアン・エプスタインの死(1967年)以来、彼らは行くべき方向を見失います。音楽面では相変わらず大ヒットを連発していましたが、自主制作映画「マジカル・ミステリー・ツアー」は失敗に終わり、副業として華々しく設立した会社・アップルもたちまち経営危機に見舞われます。レコーディングにおいても、個性の違いが際立ってきた各メンバーの関係がぎくしゃくし、内輪の出来事ながらリンゴ・スターとジョージ・ハリスンが相次いで一時脱退するという事件まで起こりました。1968年頃にはビートルズは既に崩壊し始めていたのです。アルバム『サージェント・ペパー』以来、リーダーのジョン・レノンに代わってグループの牽引役となっていたポールは、バラバラになりかけたビートルズを何とか立て直そうと他の3人を説得し、その中心となって日々奮闘していました。しばらく停止していたライヴ活動を再開させるべく始まった「ゲット・バック・セッション」や、その破綻後に制作されたアルバム『アビイ・ロード』はその成果と言えます。

 しかし1969年9月、ポールは大きな衝撃を受けます。かねてからオノ・ヨーコに興味を奪われビートルズへの関心がなくなっていたジョンが、会議の席上で「俺はグループを抜けようと思っているんだ」と発言したのです。数々の努力もむなしく、ジョンがきっぱりと脱退の意向を示したことにポールは深く傷つき、グループやビジネスのもめ事から逃げ出すかのようにスコットランドにある自分の農場に引きこもってしまいます。折しもいわゆる「ポール死亡説」が広まっていた頃で、突然の隠遁生活はこれに油を注ぐ格好となってしまいました。ジョンが去り、ビートルズが終わったらどうなるのか─自暴自棄にもなりつつ、ポールはしばらく思い悩みます。そんな時、ポールのそばにいつもいて、心の支えとなったのは、3月に結婚したばかりの愛妻リンダと、2人の娘(ヘザーとメアリー)でした。

 【アルバム制作】

 苦悩の末に、ポールはソロ・アルバムを作る決心をします。家族と共にロンドンに戻ると、1969年末頃に自宅に4トラックの録音機材を導入。そこにマイクを直接つなぐという極めてシンプルな手法を使ってレコーディングが開始されました。最初に録音したのはで、機材のテスト用でした。ギター、ベース、ドラムス、キーボードと楽器はすべてポールが1人で演奏。ビートルズでも片鱗を見せていたマルチ・プレイヤーぶりが存分に発揮されます。プロデューサーもエンジニアももちろんポール。リンダは一部の曲でコーラスを加えたほか、迷った時は助け舟を出してくれました。続いてポールはレコーディングの舞台をモーガン・スタジオに移動。ここでは13を録音し、自宅セッションで着手していた10などを完成させましたが、ここでも演奏はポールだけで行われました。1970年2月にはおなじみのアビイ・ロード第2スタジオで12などをこれまたポール1人で録音し、アルバムは完成します。文字通りポールの「ソロ」セッションでした。なお、後者2つのスタジオをポールは「ビリー・マーティン」という偽名で予約しており、自分の行動をビートルズのメンバーや関係者に察知されないよう神経質になっていたことがうかがえます。

 アルバム・ジャケットは写真家でもあるリンダの撮影で、アンティグア島で休暇を過ごしていた時に、鳥のために低い壁に置いたサクランボを写したもの。裏ジャケットは赤ん坊の娘メアリーをコートの中に入れて微笑むひげ面のポールを写したもので、ポールいわく本来はこちらが表とのこと。見開きジャケット内側にはリンダやポールが休暇中に撮影した写真が多数使用され、当時のポールが求めていた安らぎが表現されています。

 『McCartney』セッション早見表

 【発売後の流れ】

 ポールは、既に発売の決まっていたビートルズのアルバム『レット・イット・ビー』とリンゴのソロ・アルバム『センチメンタル・ジャーニー』より早く自分のアルバムを発売するようアップルに働きかけます。これに対してはビートルズの新マネージャーとなったアラン・クレイン(ポールのみがその起用に反対していた)が妨害を試みましたが、結局は『センチメンタル・ジャーニー』『マッカートニー』『レット・イット・ビー』の発売順で落ち着きます。そして、『マッカートニー』の発売1週間前、ポールは苦渋の決断を下します。マスコミに配布された『マッカートニー』用のプレス・キットに掲載されたインタビューは、「ビートルズと新たなアルバムやシングルを作るつもりはない」「ジョンと一緒に曲を書く予定はない」など、明らかに「ポールのビートルズ脱退宣言」と取れる内容でした。これを受け4月10日、新聞が「ポール脱退」を報じ、皮肉にも最後までビートルズに残り続けようとしたポールによってビートルズの崩壊が公になったのでした。

 衝撃的なニュースが世界中を駆け巡る中、ポール初のソロ・アルバム『マッカートニー』はついに発売され、米国で3週連続1位・英国で2位を記録する大ヒットとなりました。不思議なことにアルバムからのシングルカットは一切なし。しかし、好調なセールスとは裏腹に、ポールは「ビートルズを解散させた男」として世間から悪い目で見られるようになります。ビートルズを法的に解散させるためにポールが他の3人を裁判に訴えたこともマイナス要因となり、以後数年にわたりポールに対する風当たりは(特に評論家たちによって)強くなります。また、ジョンやジョージとの関係は完全にこじれ、特に先行して脱退を決意していたジョンのショックは計り知れず、ポールへの憎しみを公然と表すようになります。

 【管理人の評価】

 万全ではない自宅でのレコーディングを中心に、すべての楽器をポール1人で演奏したものをそのまま収録したため、当時から評論家の批判の種にされていたように、このアルバムが全体的に粗削りで、完成度の低いことは否めません。いくらマルチ・プレイヤーとはいえ、本腰を入れて丁寧に作ったわけでもないその仕上がりはまるでデモ・テープのようで、最近の音楽に聴き慣れた耳にはチープに思えることでしょう。ましてや、それがビートルズでは完成度の高いアルバム・名曲を次々と送り出していた(当時の最新作が『アビイ・ロード』!)ポール・マッカートニーのアルバムと考えると、にわかには信じられないかもしれません。また、インスト・ナンバーが5曲(1113)と多く頻繁に登場するため、散漫な印象があるのも事実です。

 しかしそんな未完成さや散漫さと引き換えに、このアルバムには当時のポールのありのままの姿が映し出されています。派手なアレンジでも幾重にもわたるオーバーダブでも、著名な誰かのサポートでも飾ることのない、アルバム・タイトルが示す通り「ポール・マッカートニー」そのものなのだと。ビートルズを見失い、自分はどうあるべきか悩んだ末の答えは、原点に返って正直に音楽を楽しみ、正直に自分を表現することだったのです。前者は主にインスト・ナンバーやアドリブ風の曲で、後者はといった曲に漂う内省的な雰囲気に感じ取れます。また、歌詞を見るとポールの心の支えとなったのが他の誰でもないリンダだったこともよく伝わってきます。ずばりそのままのはもちろん、でもリンダと再出発したい気持ちを歌っています。そして12ではポールのリンダへの率直な想いが力強いヴォーカルであらん限りに歌われています。先述の「ビートルズ脱退宣言」でも触れられているように、ポール個人の「家庭・家族・愛」がアルバムの一貫したテーマとなっています。ポールの作品はエンターテインメント性が高いとよく言われますが、その中でもこのアルバムは極めてプライベートな性格が強い、異色の1枚と言えるでしょう。

 ポールは後年、「ソロ・キャリアの中でも『マッカートニー』を制作していた時が一番楽しかった」とたびたび回想していますし、その証拠にベスト盤『夢の翼〜ヒッツ・アンド・ヒストリー〜』にはこのアルバムから5曲も収録されています。ライヴでもしばしば取り上げられる曲が多いですし、ポールにとって最も重要な記念碑的なアルバムの1つであることは疑いありません。その思いはファンも一緒で、絶大な人気を誇る12を筆頭にといった曲は今なお愛され続けています。このように、完成度とありのままの狭間にあってポールの音楽を聴く者にとっては「試される」作品かもしれません。ポールのソロを聴き始めの方が真っ先に聴くと戸惑うかもしれませんが、このアルバムを聴いてみて好きになった方は、間違いなくポールの音楽にどんどんはまってゆくことでしょう。ちなみに、私は12が特に好きです。

 

 なお、このアルバムは2011年にリマスター盤シリーズ「ポール・マッカートニー・アーカイブ・コレクション」の一環としてヒア・ミュージックから再発売されました。初登場の未発表音源がたっぷりのボーナス・ディスクが追加されているほか、関連映像を収録したDVDも付いてくるので(一部仕様のみ)、今から買うとしたらそちらの方がお勧めでしょう。解説はこちらから。

 

 アルバム『ポール・マッカートニー』発売50周年記念!収録曲+aを管理人が全曲対訳!!

 


 【曲目解説】

 1.ラヴリー・リンダ

  ポールのソロ・ナンバーで最初の最初に録音された記念すべき1曲。スコットランドで書かれ、ロンドンの自宅に導入した新しい録音機材のテスト用に取り上げた。タイトルが示す通り愛妻リンダのことを歌っていて、これからはリンダと2人で歩んでゆこう、というポールの意気込みが感じられる。ポールはドラムスの代わりに本をたたいている。当初はスペイン風のパートを書き加えるつもりだったが、結局ボツになっている。小曲ながらベスト盤『夢の翼〜ヒッツ・アンド・ヒストリー〜』に収録されていて、ポールにとってリンダがいかに大切な存在だったかが分かる。

 

 2.ザット・ウッド・ビー・サムシング

  自宅で録音したラフな仕上がりの曲。単調なメロディと歌詞の繰り返しだが、ポールらしくキャッチー。途中から入ってくるシンバル&スティックと、ドラム・ビートを真似たポールのスキャットがアクセントになっていて、聴いていて楽しい。1991年に米国MTVの番組「アンプラグド・ショー」に出演した際にはスキッフル風のアレンジで演奏された(アルバム『公式海賊盤』に収録)。当時の邦題は「きっと何かが待っている」。

 

 3.バレンタイン・デイ

  これまた自宅で録音した曲で、アドリブで作られた他愛ないインスト・ナンバー。ポール自身も単なる機材のテスト用であることを認めている。レコーディングは1969年中に済ませてあるはずだが、なぜ2月14日を意味するタイトルになったのだろうか。

 

 4.エヴリナイト

  1969年にギリシャでの休暇中に書かれた曲で、アビイ・ロード・スタジオでの録音。アコースティック・ギターをメインに据えたブルージーな曲調で、それを反映してか歌詞は田舎に引きこもっていた当時のポールの心境を歌ったもの。途中のハミングが、1年前に発表されたビートルズの「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」(作曲はポール)の冒頭に酷似している。

  ポールお気に入りの曲で、『夢の翼〜ヒッツ・アンド・ヒストリー〜』『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』(後者はデラックス・エディションのみ)の各ベスト盤にも収録。ファンの間でも人気の高い佳曲である。ライヴでは1979年のウイングス全英ツアーで初めて取り上げられ、今でも時折披露されることがあるが、その時によってアレンジが大幅に異なるのが面白い。私は1979年のライヴでのエレクトリック・アレンジのヴァージョンが一番お気に入りですね。

 

 5.燃える太陽の如く/グラシズ

  2曲のメドレー、というよりは別々に録音された3つの曲をくっつけたもの。複数の未完成の曲を合体させて1つの曲として完成させるのは、ポールのソロではよく使われる手法となる。最初の「燃える太陽の如く」はトロピカルな雰囲気のインスト・ナンバーで、ビートルズのデビュー前、ポールが10代の頃に作曲した。『マッカートニー』の少し前にはビートルズの「ゲット・バック・セッション」でも演奏されていた。また、1979年のウイングス全英ツアーでテンポを速めた形で演奏された。メロディにのせて「夏が来た、夏が来た」と歌いたくなってきます(苦笑)。

  続く「グラシズ」は、水の入ったワイングラスのふちに触れて鳴らした音を重ねたもの。夏から一転してひんやりした感じ。そして最後に唐突に入る短いピアノ弾き語りの歌は、長いことブートでしか聴くことのできなかった「スーサイド」という曲の一部で、曲の最後まで収録した完全版が2011年のリマスター盤『マッカートニー』で初めて陽の目を浴びた。フランク・シナトラに贈ろうとしたが録音を断られたというエピソードで有名。

 

 6.ジャンク

  ビートルズが瞑想旅行のためインドに滞在していた1968年に書いた曲で、アルバム『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』用にジョージ・ハリスンの自宅で録音されたデモ・テイクをビートルズのアルバム『アンソロジー3』(1996年)で聴くことができる。結局ビートルズとしてはお蔵入りとなり、ソロ・アルバムに回されることとなった。自宅とモーガン・スタジオでの録音。ワルツのリズムを持つアコースティック・ナンバーで、センチメンタルな歌詞もあいまって物悲しげな雰囲気が漂う。ファンの間で人気の高い曲で、『夢の翼〜ヒッツ・アンド・ヒストリー〜』『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』の各ベスト盤にも収録。

 

 7.男はとっても寂しいもの

  ポールとリンダの記念すべき初デュエット・ナンバー。「寂しかったけど、今はもう元気」と2人での再出発をほのぼのと歌う。アビイ・ロード・スタジオで録音され、ミドルの部分はレコーディング直前の昼食中に急いで書かれた。カントリーっぽいギター・フレーズが印象に残る。1988年にジョニー・キャッシュとのセッションで再演されたという噂がある。ベスト盤『夢の翼〜ヒッツ・アンド・ヒストリー〜』にも収録。じっくりレコーディングしていたらもっと名曲になっていたことでしょう。アナログ盤はここまでがA面。

 

 8.ウー・ユー

  2本のエレキ・ギターを左右に配したファンキーなロック・ナンバー。自宅で録音された当初はインストだったが、モーガン・スタジオでの作業中に歌詞が付け加えられた。シンプルな曲だが、カウベルやエアゾール・スプレーの音が入っているのがユニーク。インストだった頃の初期テイクがリマスター盤『マッカートニー』のボーナス・トラックに収録されている。

 

 9.ママ・ミス・アメリカ

  完全なアドリブで作られたインスト・ナンバーで、自宅での録音。別々に作った2曲を編集で1つにくっつけており、そのつなぎ目ははっきりと分かる。どちらも典型的なブルースのコード展開だが、前半と後半で曲調の明暗ががらりと切り替わるのが面白い。この曲と「シンガロング・ジャンク」は映画「ザ・エージェント」(1996年)のサントラに使用された。個人的はこの曲の前半を聴くと、公式プロモ・ヴィデオ集「ポール・マッカートニー・アンソロジー(The McCartney Years)」のメニュー画面がいつも思い浮かんで仕方ありません(笑)。

 

 10.テディ・ボーイ

  「ジャンク」と同じ頃書かれ、ビートルズの「ゲット・バック・セッション」で取り上げられたもののお蔵入りになっていた曲。グリン・ジョンズが暫定的に編集したアルバム『ゲット・バック』にも収録されていたが、再編集の折にオミットされ、フィル・スペクターの手でアルバム『レット・イット・ビー』として仕切り直された際にも未収録に終わった。ビートルズ時代の演奏は『アンソロジー3』で聴くことができるが、ポールの新曲に関心のなかったジョン・レノンがふざけているのが分かる。

  ビートルズ・ヴァージョンがお蔵入りになったため、ポールは自宅とモーガン・スタジオでこの曲を再録音した。アレンジは一新され、アコースティック・ギターが主体の牧歌的なサウンドに生まれ変わった。コーラスはポールとリンダが担当。歌詞はポールお得意の物語風のもので、大好きな母親が再婚して戸惑うテディ・ボーイの複雑な気持ちをつづっている。この曲はソロで録り直して正解だったと思います。

 

 11.シンガロング・ジャンク

  「ジャンク」のインスト・ヴァージョン。6トラック目とは違うテイクで、こちらの方が先に録音されていた。アレンジも異なり、ピアノやエレキ・ギターがヴォーカル・パートをなぞっている。ストリングスのような音はメロトロンによるもの。繰り返しも「ジャンク」より1回多い。自宅とモーガン・スタジオでの録音。1991年の「アンプラグド・ショー」ではこちらのヴァージョンが演奏された(『公式海賊盤』に収録)。手軽に「ジャンク」のカラオケが楽しめます。さぁ、みんなも歌ってよ!

 

 12.恋することのもどかしさ

  荒削りながらも力強いポールのヴォーカルが心を打つソウルフルなピアノ・バラード。ロンドンで作曲され、アビイ・ロード・スタジオでのセッションで録音された。コーラスはポールとリンダ。このアルバムでは一番しっかりとした仕上がりの曲で、それゆえに当時からファンの間で注目されていた曲だったが、当時はなぜかシングルカットされなかった。プロモ・ヴィデオが制作され、マッカートニー一家の写真をスライドショーのように映したシンプルな内容だった。歌詞はリンダのやさしい愛に触れ、驚きつつも「君こそが僕を助けてくれる唯一の人」とリンダへの想いをストレートに歌い込んだもの。「ヘイ・ジュード」や「レット・イット・ビー」にも感じられた独特の「神がかった」空気は、ポールの「魂」そのものと言っても過言ではないでしょう。この曲を聴いて何も感じない人は、ポールの音楽とは相性が合わない・・・そう断言できてしまうほどの名曲です。

  ポール・ファンの間では最も人気の高いマッカートニー・ナンバーの1つであり、ポール自身の思い入れも強いことから、ウイングス時代から現在に至るまで大半のコンサートで取り上げられている息の長い曲。うち、1976年のウイングス全米ツアーでの演奏はライヴ盤『ウイングス・オーヴァー・アメリカ』からシングルカットされ米国で最高10位を記録した(この時の邦題は「ハートのささやき」だった)。『ザ・グレイテスト』『夢の翼〜ヒッツ・アンド・ヒストリー〜』『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』の各ベスト盤にも収録。英国盤『オール・ザ・ベスト』のアナログ盤にも収録されていたが、CDではオミットされている。

 

 13.クリーン・アクロア

  ブラジルのジャングルに住むクリーン・アクロアという原住民が、白人たちにどうやって生活を変えられたかを特集したTV番組を見て衝撃を受けたポールとリンダが、その翌日からモーガン・スタジオで作り始めたという実験的なインスト・ナンバー。ポールによるドラム・ソロを中心に、エレキ・ギターやオルガンが加えられている。動物の鳴き真似や呼吸音もSEとなっている。さらにはスタジオでたき火をしてその音を録ったが、採用されなかった。後年にもポールは「ループ(ファースト・インディアン・オン・ザ・ムーン)」というインディアンを題材にしたインストを作っていますが、どちらもポールのアバンギャルドな側面を味わえます。ただ、「恋することのもどかしさ」できれいにアルバムを終わらせてもよかったのに・・・とも思います。

 

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