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このアルバムの収録曲はすべてオリジナル版に収録された曲です。収録曲のうち、ポールとスティーヴ・ミラーの共作である9と、ポールとリンゴ・スターの共作である12を除く全曲がポール本人による作曲です。リンゴは、作曲者としては本名の「リチャード・スターキー」名義でクレジットされています。
【時代背景】
ドラマーの交代はあったものの、結成以来約4年の付き合いですっかり気心の知れたツアー・バンドのメンバーと一緒にアルバム『オフ・ザ・グラウンド』(1993年2月発売)を制作したポール。ヨーロッパでのヒットで健在ぶりを示したのも束の間、新作を引っさげたニュー・ワールド・ツアー(1993年2月18日〜12月16日)を間髪入れず敢行します。最終的に計19ヶ国を訪れ全77公演をこなしたこのワールド・ツアーでは、初めて演奏される新曲やビートルズ・ナンバーの数々が各地で前回の「ゲット・バック」ツアーに負けず劣らずの大歓迎を受けた一方、動物虐待への反対や地球環境問題を訴えかけたプレショーのフィルムは賛否両論高い関心を集めました。ツアーの音源はライヴ盤『ポール・イズ・ライヴ』としてまとめられ、ソロとして2度目の来日公演(1993年11月)と同時期にリリースされています。せわしない日々の充実ぶりに、ポールは「今では信じられないけど、数年前は50歳で引退するつもりだったんだ。それがいまや次のアルバムや次のツアーについて話しているんだよ」と当時語っていました。
ニュー・ワールド・ツアーが終わると、その反動でポールは静かに過ごすものと予想されていました。しかし実際には、「次のアルバムや次のツアー」こそなかったものの独自の活動を精力的に、しかも多岐にわたって展開してゆきます。例を挙げると、『オフ・ザ・グラウンド』セッション中に着手していたハウス・ミュージックのリミックス・アルバム『ストロベリーズ・オーシャンズ・シップス・フォレスト』をザ・ファイアーマンの変名名義で発表(1993年11月)。「リヴァプール・オラトリオ」で才能を開花させたクラシック方面では、チャリティ・コンサート「ポール・マッカートニーとその仲間たちの夕べ」(1995年3月23日)で披露されたピアノ組曲「リーフ」を書いたほか、レコード会社のEMI100周年のため1993年に依頼された交響詩「スタンディング・ストーン」の作曲に集中的に取り組んでいます(初演は1997年)。オノ・ヨーコからアレン・ギンズバーグまで他アーティストとの共演も多く、チャリティ・アルバム『ヘルプ』(1995年9月発売)ではポール・ウェラーやノエル・ギャラガーらと共にビートルズ・ナンバー「カム・トゥゲザー」を再演しました。また、'70年代から構想を温めていたというラジオ番組「ウーブ・ジューブ」ではポール自らDJをつとめ、貴重な未発表音源を多数放送しました(1995年5月〜9月・全15回)。さらには音楽以外の分野にも熱心で、母校をリバプール・インスティテュート・フォー・パフォーミング・アーツ(LIPA)という芸術大学へと再建すべく奔走(その後1996年1月に無事開校)。環境運動家・菜食主義者としての側面も先鋭化し、リンダと2人で積極的に発言を続けました。
しかし、この時期のポールにとって何より重要だったのが「ザ・ビートルズ・アンソロジー」。ビートルズの軌跡をドキュメンタリー番組・未発表曲集・書籍でたどるという一大プロジェクトの進捗が本格化していたのです。ポールは前述の諸活動の合間を縫ってインタビューを収録したり、膨大なセッション・テープを聴き直したり、存命の元ビートル(ジョージ・ハリスンとリンゴ・スター)との旧交を温めたりとビートルズ漬けの毎日を送ります。ジョン・レノンが残したデモ・テープを基に3人で仕上げたビートルズの「新曲」はそのハイライトとなり、うち「ナウ・アンド・ゼン」はこの時は完成に至らずお蔵入りになってしまったものの、「フリー・アズ・ア・バード」が1995年11月に、「リアル・ラヴ」が1996年3月にそれぞれ解禁され大きな反響を呼びました。ビートルズのレコーディングを改めて聴いた時の感想をポールは「僕らがどれだけアルバム制作に手間をかけていなかったか再認識したよ」と述べていますが、汗水流すのではなく楽しもう─というビートルズ時代のモットーはやがて具体化してくるニュー・アルバムにもそのまま適用されることになります。
【アルバム制作】
多忙に見える'90年代中期を「自由な時間がたっぷりあった」とするポールは休暇などを利用して新曲を書き溜めていましたが、これらを正式に録音するにあたり、今回はツアー・バンドの手を借りず基本的にはポールがすべての楽器を演奏し、一部で親しい友人をフィーチャーすることにしました。世界を2度駆け巡り、十分に満喫したコンサート・ツアーにはしばらく出るつもりがなかったためです。ビートルズの名盤に多く携わったジェフ・エメリックとその弟子ジョン・ジェイコブズをエンジニアに指名した後、友人枠としてまず白羽の矢が立ったのがスティーヴ・ミラー。ポールはスティーヴ・ミラー・バンドの「暗黒の時間」(1969年)に参加したことがあり、長男ジェイムズとの間でこの曲が話題に上ったのが決め手でした。リンダからオファーの電話を受けたスティーヴは快諾し、ポールをサンバレー(米国アイダホ州)にある私設スタジオに招待。まだ雪が残る同地でスキーを楽しみつつ、1995年2月に5をレコーディングしました。作業中、完璧主義なきらいがあるスティーヴを納得させるのは大変だったとのこと。5月には今度はスティーヴが渡英して、サセックスにあるポールの私設スタジオ「ホッグ・ヒル・ミル・スタジオ」でセッションを続行します。この時は3・9や「ブルームスティック」などが取り上げられました。
続いて、エレクトリック・ライト・オーケストラ(ELO)の元メンバーで生粋のビートルズ・フォロワーであるジェフ・リンに声をかけ、大半の楽曲の共同プロデューサーに起用しました。ジェフはアルバム『クラウド・ナイン』やトラヴェリング・ウィルベリーズの作品を通じてジョージと親しくなり、その縁でビートルズの「新曲」のプロデューサーにも名を連ねていました(ポールは初対面のジェフに警戒心を抱いていたが、たちまちその手腕を気に入った)。ジェフはスケジュールを6週間と見積もっていましたが、「それではやがてお互いに飽きてしまうので2週間で済まそう」とポールは提案します。こうして、ポールとジェフが担当楽器とプロデュースを分け合う形で、ホッグ・ヒル・ミル・スタジオで短期集中型のセッションが数回行われました。1995年11月には1・2・11が、1996年2月には7・10がそれぞれ録音されています。特筆すべきが13をリメイクした1996年5月のセッションで、かねてから「また一緒に仕事しよう」と約束していたリンゴがドラムスで参加。旧友との和気藹々としたスタジオの雰囲気にポールも「本当に昔に帰ったようだったよ」とご満悦で、追加の日程で始めたジャムでは12と「ルッキング・フォー・ユー」の2曲も生まれました。そして1996年9月にジェイムズとの初の親子共演が実現した8をもって、新曲のレコーディングは粗方完了しました。
アルバムには他にも、ポールのソロ・レコーディングによる4と、『オフ・ザ・グラウンド』発売前の1992年9月にジョージ・マーティン(ビートルズを手がけた名プロデューサー)との共同プロデュースで完成させていた6・14が引っ張り出されてきました。半分引退状態にあったマーティンはポールの要望で4・13のオーケストラ・スコアも書き下ろしています。一方、収録曲を決定する中でアルバムから漏れてしまった曲のうち、「ルッキング・フォー・ユー」「ブルームスティック」はシングルのB面/カップリングに回され、1992年のセッションでのアウトテイク「ホエン・ウィンター・カムズ」はアルバム『マッカートニーIII』(2020年)で陽の目を浴びます。
アルバム・タイトルはいくつかの候補から7と同じものが選ばれました。これはジョンが地元リバプールのマージー・ビート紙創刊号(1961年7月)に投稿した、ビートルズのグループ名の由来にまつわる伝記エッセイ(燃え盛るパイに乗った男が現れて「君たちはAの付いたビートルズだ」とお告げした)にインスパイアされています。スタジオ・アルバムでは久々にポールの顔が写るアルバム・ジャケットを始め、アートワークに使用された写真は主にリンダが撮影。燃え盛るパイのイラストはポール直筆です。他方、レーベル面はベルギーの画家ルネ・マグリットの絵画「固定観念」(1966年)を流用しました。全体のデザインはザ・チームが監修し、見開きジャケット内側(CDではブックレット)には参加ミュージシャンの写真の寄せ集めとポールのコメントを掲載。アナログ盤のインナー・スリーブ及びCDのブックレットには収録曲の歌詞・演奏者クレジット・各曲ができるまでの詳細な解説(ポール、マーク・ルイソン、ジェフ・ベイカー)が印刷されています。ライナーノーツを豊富にした点は「ザ・ビートルズ・アンソロジー」でレコーディング・データを整理した影響を強く受けたと言えます。
【発売後の流れ】
ポールは時間に追われることなくアルバムを完成に近づけていましたが、その矢先にEMIから「ビートルズの『アンソロジー』が出たばかりなのにソロ・アルバムなんて必要ない」とお達しを受けてしまいます。これには最初憤慨したものの、自分が関わった作品同士を競わせるのは愚考と思い直したポールは、『アンソロジー』3部作が出回りきった後にアルバムをリリースすることに決めました。結局、機が熟したのはポールが英国王室からナイト爵位を授与された1997年春のこと。まず4月に英国で5が、5月に米国で2が先行シングルとして発売されます。世界中のファンが待ち望んでいた新譜は、前者が最高19位とまずまずの成績を収めました。そして5月に、実に4年ぶりとなるオリジナル・アルバム『フレイミング・パイ』は満を持して世に送り出されます。巷では「ザ・ビートルズ・アンソロジー」を受け元ビートルのソロワークへの関心が高かった上に、若いビートルズ・ファンの新規獲得に成功していたことにも助けられ、英米共に最高2位と前作『オフ・ザ・グラウンド』を上回るヒットに(なお、両方のチャートで首位に君臨していたのはスパイス・ガールズの『スパイス』だった)。そこに評論家たちも「魅力的で強力な新曲のセット」「魔法が戻ってきた」と賞賛の言葉を浴びせポールを喜ばせます。さらにうれしいことに、1997年度グラミー賞では最優秀アルバム賞にノミネートされました。
英国ではアルバムからの第2弾シングルとして2が、第3弾シングルとして13が発売されています。当初の計画通り、そして1995年末に乳癌が見つかったリンダの病状を考慮して、アルバム発売後にコンサート・ツアーは一切開催されませんでした。その代わりに、ポールはTVやラジオに相次いで出演してアルバムを盛んに宣伝しました。例えば、1997年5月5日に放送された英国BBCのラジオ番組「フレイミング・パイ・ラジオ・スペシャル」ではホッグ・ヒル・ミル・スタジオの内部をリスナーに紹介し、ジェフやリンゴと共にインタビューに応じています。続く17日には米国VH1の特別番組「ポール・マッカートニーのタウン・ホール・ミーティング」に出演。インターネット経由で全世界から質問を受け付けた結果、300万通もの質問が寄せられ「一度に最も多くの人が参加したインターネット・チャットルーム」としてギネス世界記録に認定されました。また、英国チャンネル4のトーク番組「TFIフライデイ」(1997年6月27日放送)と米国ABCのトーク番組「オプラ・ウィンフリー・ショー」(1997年11月24日放送)では5・7が演奏され、人前で披露された数少ない『フレイミング・パイ』収録曲となりました。一方、「フレイミング・パイ・ラジオ・スペシャル」と同趣旨のドキュメンタリー・フィルムが「イン・ザ・ワールド・トゥナイト」のタイトルで制作され、アルバム発売直後にVH1などで放送された後、10月にはVHSとして一般発売されています(現在は「ポール・マッカートニー・アーカイブ・コレクション」シリーズで再発売された『フレイミング・パイ』のボーナスDVDでも見ることができる)。
【管理人の評価】
ポールのソロ名義ながら実質バンドのアルバムだった前作『オフ・ザ・グラウンド』と、ごく一部の友人のサポートを除けばポールの1人多重録音が基本となっている『フレイミング・パイ』。後者について「ずっと内密で自家製なんだ」とポールが説明するように、その方向性は真逆のように見えます。しかしよく聴くと、このアルバムは確かに前作の延長線上にあります。打ち込みサウンドを一切排した必要最小限の楽器編成はそのままですし、クールなロック・ナンバーとアコースティック・バラードを交互に聞かせる構成も類似。実はこの2枚、根底では同じ路線を共有しているのです。
それを踏まえた上で、『フレイミング・パイ』ならではの特徴として挙げられるのが前作よりも素朴な音作りが徹底され、ゆったりとした雰囲気がいっそう増幅されている点でしょう。例えば、アコースティック・ギターを前面に出したアレンジが(弾き語りである6・14から割と硬派な3に至るまで)ぐっと増えましたし、収録曲の実に半数以上をバラードが占めています。アルバム発売に伴うコンサート・ツアーが予定されず、ライヴ映えを意識する必要性が薄れたのも一因と考えられますが、「ザ・ビートルズ・アンソロジー」でシンプル極まりない初期ビートルズ・ナンバーの魅力を再確認したことがこの変化に大きく作用しました。先述した「アルバム制作に手間をかけない」「汗水流すのではなく楽しもう」という初期ビートルズのモットーの導入も無関係ではありません。曲を聴きながら目を閉じると、まぶたの向こう側に笑顔でセッションを楽しむポールたちの姿が見えてくる・・・そんなアットホームな手作り感覚を味わえます。
ジョージ・マーティンが協力したソロ・レコーディング、ポールのセルフ・プロデュースによるスティーヴ・ミラーとの共演、そして8曲が該当するジェフ・リンとのコラボレーションの3つが混在していますが、それらのカラーは不思議なほど統一されていて、散漫さを感じさせません。中でも当時ファンの間で驚きの声が上がったのが、ELOやジョージの諸作品で強烈な印象を残す「ジェフ・リンの音」がほとんど封印されている点。ジェフの個性的な制作スタイルに支配されたくないというポールの意向を尊重した結果ですが、もしこのアルバムで王道のジェフ節を展開していたら折角のシンプルさが台無しになっていたはずなので、その判断は正しかったと言ってよいでしょう。
このアルバムでのポールは、あらゆる制約を受けず純粋に音楽を楽しみ、終始無理なくマイペースに輝いています。そんなポールが送る新曲に誰しも喜びと癒しを感じられる辺りが、久々に世界的なヒットを記録した秘訣でしょう。各曲のメロディが(ジャムから生まれた9・12はともかく)いちいち強力なのも成功を裏付けています。ゲスト参加したミュージシャンにも注目で、ビートルズが好きならリンゴの存在は見逃せません。また、翌1998年に亡くなるリンダの歌声を聴くことのできる最後のアルバムという点も特筆に値します(それゆえにポール本人の思い入れも強いようで、ベスト盤『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』にはこのアルバムから8曲も収録している)。アグレッシブな作風を求めると期待外れになってしまいますが、これからポールのソロを聴こうと考えている方も含め広くお勧めできる'90年代の名盤だと断言できます。アコースティックな曲をじっくり聴きたい、ビートルズをほうふつさせるノスタルジーに浸りたいという方には最適です。個人的にはどこか覇気がなく、老いを感じてしまうポールのヴォーカルが唯一の難点なのですが・・・それはそれで枯れた味わいにつながっていると前向きに捉えています。ちなみに、私は2・4・6・12が特に好きです。
なお、このアルバムは2020年にリマスター盤シリーズ「ポール・マッカートニー・アーカイブ・コレクション」の一環としてキャピトルから再発売されました。初登場の未発表音源がたっぷりのボーナス・ディスクが追加されているほか、関連映像を収録したDVDも付いてくるので(一部仕様のみ)、今から買うとしたらそちらの方がお勧めでしょう。解説はこちらから。
アルバム『フレイミング・パイ』発売20周年記念!収録曲+aを管理人が全曲対訳!!
1.ザ・ソング・ウィー・ワー・シンギング
1995年1月に休暇で訪れたジャマイカで書かれたワルツ・ナンバー。ジェフ・リンとのセッションで最初に取り上げられ、デモ・テープの演奏をマルチトラック・テープにコピーした上で忠実に再現している(元々は4拍子のパートが存在したがカットされた)。ポールが弾くウッド・ベースは、ビル・ブラックがエルビス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」で使用したもの。仲間たちと夜通し談笑した'60年代を振り返った詞作が郷愁を誘う。ポールのお気に入りのようで、ベスト盤『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』に収録している。
2.ザ・ワールド・トゥナイト
この曲が生まれたのも休暇中で、「Saw You Sitting」「Sitting In The Centre」のタイトルで書き始められた。デモの段階ではフォーク・ソング風だったものの、リンダの要望でエレキ・ギターを利かせたヘヴィーなロックに仕上げた。プロデューサーはポールとジェフ。ポールいわく歌詞は「ただのアイデアの寄せ集め」で、とりわけナンセンスな“I go back so far, I'm in front of me(ずっと後ろに戻れば/僕は僕の前にいるよ)”という一節が特に印象に残っているとのこと。
ロック専門のラジオ局の影響力が強い米国では先行シングルに選ばれたが、最高64位と伸び悩んだ。一方英国では、1997年7月にアルバムからの第2弾シングルとして発売され23位まで上昇。また、同年公開の映画「ファーザーズ・デイ」のエンディング・テーマにも使用された。プロモ・ヴィデオでは、なぜかラジカセを担いでさまよい歩く不審者さながらのポールを見ることができる。ベスト盤『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』にも収録。
3.イフ・ユー・ウォナ
ビートルズ時代の「今日の誓い」にも似たマイナー調のロック・チューン。1993年5月にニュー・ワールド・ツアーのため立ち寄っていたミネアポリス(米国ミネソタ州)で、ご当地アーティストのプリンスにインスパイアされたとポールは語る。曲を書いた数日後には、サンアントニオ公演(5月29日)のサウンドチェックで早速演奏したのが確認されている。スタジオ・テイクはポールのセルフ・プロデュースで、ポールとスティーヴ・ミラーの2人で録音された。広大な砂漠を走るキャデラックが思い浮かぶ、米国に典型的なドライヴ・ソングだ。
4.サムデイズ
枯れた味わいを堪能できる美しいアコースティック・バラード。ポールはこの曲を、料理関連の仕事でフォト・セッションに臨むリンダを待ちながら1時間半ほどで書き上げた。その後たった1回のセッションでレコーディングを済ませてしまったが(演奏もプロデュースもポール単独)、物足りなさを覚えたことからジョージ・マーティンにオーケストラ・スコアを依頼した。曲を聴いたマーティンは「あの頃の感覚はまだなくしていないようだね」と絶賛したという。曲調は悲しげだが、歌詞はリンダに捧げたポジティブなラヴ・ソングである。アルバム発売前に関係者に配布されたカセット・テープには、随所でミックスが異なりエンディングの繰り返しが多い別ヴァージョンを収録。このアルバムで私が一番好きな曲です。
5.ヤング・ボーイ
これまたリンダの仕事が終わるのを待っている間に思いついた曲で、ニューヨーク・タイムズ紙の取材を受けた彼女が料理を作るのと並行して数時間のうちに書かれている。当初のタイトルは「Poor Boy」であった(同名のエルビス・ナンバーがあることから改題された)。25年ぶりに実現したスティーヴとの共演で最初に録音された曲で、間奏のソロを含めエレキ・ギターはスティーヴが担当。ポールらしく全体的にポップでキャッチーだが、最後は意表を突いてテンポ・ダウンする。プロデューサーはポール。
英国など多くの国ではアルバムからの先行シングルとなり、全英19位のスマッシュ・ヒットに(さらにスペインでは最高3位を記録した)。この曲も映画「ファーザーズ・デイ」の主題歌に起用されている。プロモ・ヴィデオはスタジオで作業するポールを捉えたものと、サーファーの映像をメインにしたものの2種類が存在する。ライヴでは2つのトーク番組(「TFIフライデイ」と「オプラ・ウィンフリー・ショー」)で演奏されたきりなのが不思議。ベスト盤『ザ・グレイテスト』にも収録。
6.カリコ・スカイズ
アイルランドの香りも漂うワルツで、1991年8月に休暇で滞在中のロング・アイランド(米国ニューヨーク州)でハリケーン・ボブに遭遇した際、家族を楽しませるため停電の中書いた。「'60年代ならプロテスト・ソングになる甘いラヴ・ソング」とポールは形容している。作曲から約1年後の1992年9月にアコースティック・ギター弾き語りの形で手早く完成させたが(プロデューサーはポールとマーティン)、当時発売前だったアルバム『オフ・ザ・グラウンド』への収録は方向性の違いから見送られた。
日本のファンが掲げたサインボードのおかげか、2002年の「ドライヴィング・ジャパン」ツアー・大阪公演(11月17日)で突如ステージでの初演を果たし、以後2003年の「バック・イン・ザ・ワールド」ツアー、2004年夏のヨーロッパ・ツアー、2009年の「サマー・ライヴ09」ツアーなどでセットリスト入りした。ライヴ・ヴァージョンはフル・バンドのアレンジで、アコーディオンをフィーチャーしている。ベスト盤『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』(デラックス・エディションのみ)にも収録。
7.フレイミング・パイ
アルバムのタイトル・ソング。ピアノが曲を引っ張るものの、「スーヴェニア」のレコーディング中に出来上がったギター・リフをベースにしている。“sky”と韻を踏む単語を探していた所“pie”に行き着き、即座にジョン・レノンのエッセイを思い出したという。ジェフとの共同プロデュースで4時間ほどで録音を完了。「ジェフ・リンの音」が見え隠れする音処理と、ポールの鼻にかかったヴォーカルが楽しい。ライヴでは「TFIフライデイ」と「オプラ・ウィンフリー・ショー」で披露された後、2004年夏のヨーロッパ・ツアーで復活し、2009年の「グッド・イヴニング・ヨーロッパ」ツアーまでは頻繁に取り上げられていた。ベスト盤『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』(デラックス・エディションのみ)にも収録。アナログ盤はここまでがA面。
8.ヘヴン・オン・ア・サンデイ
収録曲中最後に書かれた曲(1996年8月)で、小型ヨットに乗ってセーリングを楽しんでいた時に曲想が浮かんだ。レコーディングは翌月に行われ、ジェフが共同プロデューサーに再登板した。聴き所は間奏とアウトロで、アコースティック・ギターを弾くポールと、エレクトリック・ギターを弾く長男ジェイムズ(当時19歳)が初の親子共演でバトルを繰り広げる。そこにリンダもコーラスで参加し、穏やかさとハードさが同居するバラードとなった。
9.ユースト・トゥ・ビー・バッド
ポールとスティーヴの共作で、リード・ヴォーカルも2人で交互に分け合っている。1995年5月にポールのプロデュースで行われたジャム・セッションから生まれた。ポールにテキサス・ブルースを歌ってほしかったスティーヴは無数のブルース・リフを持参したとのこと。英国ではシングル「ザ・ワールド・トゥナイト」のB面でもあった。
10.スーヴェニア
この曲も1995年1月にジャマイカで書かれ、その時残したホーム・デモの気楽な雰囲気を慎重に再現した。仮タイトルは「I Will Come To You」。R&Bの曲調はウィルソン・ピケットを意識したとのこと。エンディングに追加されたレコードのノイズのような音は、エンジニアのジョン・ジェイコブズが持っていた小型サウンド・サンプラーで出している。プロデューサーはポールとジェフ。ポールはシングルカットを検討するほどこの曲がお気に入りで、ベスト盤『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』(デラックス・エディションのみ)に収録している。
11.リトル・ウィロー
リンゴ・スターの前妻モーリン(1994年12月30日死去)への追悼歌。「この曲で少しでも彼女の家族の悲しみが癒えればいいな」とポールは語る。基本はアコギ弾き語りで、後からオーバーダブされた様々な音色のキーボードが命の儚さを表現しているかのよう。プロデューサーはポールとジェフ。病に倒れた母親を看取る子供の物語を描いたプロモ・ヴィデオが負けじと涙を誘う。1997年12月にはオムニバス盤『ダイアナ・トリビュート〜ダイアナ元英皇太子妃追悼アルバム』に提供している。ベスト盤『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』(デラックス・エディションのみ)にも収録。
12.リアリー・ラヴ・ユー
リンゴと「ビューティフル・ナイト」を録音した翌日、共同プロデューサーのジェフを加えた3人でジャムを楽しんでいるうちに出来上がった曲。作曲者のクレジットはポールとリンゴで、公式発表された曲で実現するのは初めてのことであった(未発表曲を含めると1991年の「Angel In Disguise」の方が先)。ポールはベースを弾き、歌いながらアドリブで歌詞を繰り出してゆく。第3節(2'10"〜)での素っ頓狂なシャウト・ヴォーカルが面白い。英国ではCDシングル「ザ・ワールド・トゥナイト」(一部仕様のみ)のカップリングでもあった。2005年のリミックス・アルバム『ツイン・フリークス』には輪をかけてグルーヴィーなヴァージョンが収録されている。
13.ビューティフル・ナイト
アルバムの実質的なラスト・ナンバーは壮大なスケールのピアノ・バラード。1986年頃に書かれ、同年8月にはビリー・ジョエルのバック・バンドと共にニューヨークでのレコーディングにこぎつけたが、ポールが仕上がりに満足せずお蔵入りに(当時のプロデューサーはフィル・ラモーン)。それから10年後にリンゴとの共演のために引っ張り出され、アップテンポのコーダが加えられた。元々船乗りがテーマだった歌詞を一部修正している。リンゴはドラムスをたたくのみならず、コーダでコーラスを入れ、最後にはドアマンの真似して「さぁさぁお入りください」とポールに声をかけている。プロデューサーはポールとジェフ。マーティンがアレンジしたオーケストラが1997年2月にオーバーダブされた。
英国ではアルバムからの第3弾シングル(1997年12月発売)で、最高25位に食い込んだ。ポールが夜の街を停電で真っ暗にしてゆくという筋書きのプロモ・ヴィデオにもリンゴが参加しているが、女性の裸が登場するため放送にあたり大幅な編集を強いられた(人はこれを「Hey Nude」と言って揶揄した)。ベスト盤『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』(デラックス・エディションのみ)にも収録。個人的には、CDシングル「ビューティフル・ナイト」で聴くことができる1986年のオリジナル・ヴァージョンの方が好きだったりします。
14.グレイト・デイ
「ビューティフル・ナイト」とバランスを取るため収録されたアコギ弾き語りの小曲で、その歴史は収録曲中最も古い。「子供たちがまだ幼かった'70年代初頭に、リンダと一緒に歌った」とポールは振り返る。1992年9月に録音されたスタジオ・テイクでもその頃と同じくリンダがコーラスで参加した。プロデューサーはポールとマーティン。ベスト盤『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』や、映画「素敵な人生の終り方」(2009年)のサントラにも収録されている。コンサートのサウンドチェックで数回取り上げられた形跡があり、2003年に開催された地雷廃絶キャンペーン「アダプト・ア・マインフィールド」の第3回チャリティ・イベントでは本番でも披露された。