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このアルバムの収録曲中1〜9はオリジナル版に収録されていた曲で、10・11はCDでのボーナス・トラックです。初CD化の際にはボーナス・トラックがありませんでしたが、1993年に「ザ・ポール・マッカートニー・コレクション」シリーズでの再発売に合わせて、アルバムからの先行シングルになった10・11の2曲が追加されました。また、米国で発売されたアナログ盤には7と8の間に10が収録され、全10曲入りとなっていました。
収録曲のうち、ポールとデニー・レインの共作である7を除く全曲がポール本人による作曲で、ポールとリンダの共作名義となっています。曲想やアドバイスを与えてくれるリンダの多大な貢献にポールは深く感謝しており、このアルバムを含めアルバム『ウイングス・ワイルド・ライフ』から1976年頃までの自作曲をすべてリンダとの共作名義で発表しています。また、ポールがリンダ以外の人物と共作した曲がアルバムやシングルに収録されるのは、7がビートルズ解散後初めてのことでした。
【時代背景】
1973年春にシングル「マイ・ラヴ」とアルバム『レッド・ローズ・スピードウェイ』がチャートの首位を獲得し、映画「007/死ぬのは奴らだ」の同名主題歌も追うようにヒットとなり、ウイングスを着実に軌道に乗せていたポール。7月まで続いた全英ツアーを成功のうちに終えると、早くも次のアルバムを見据えて新曲作りに勤しみます。同時に、次のアルバムは海外で休暇を兼ねてのんびりレコーディングしようと、レコード会社のEMIに各国のスタジオを紹介してもらいます。その中にはボンベイ(インド)、リオデジャネイロ(ブラジル)、北京(中国)などがありましたが、刺激的な音楽があり、常夏のビーチを楽しみながらセッションができるのはアフリカと考え、ナイジェリアのラゴスをレコーディングの地に選びます。ちなみに、ラゴスと共に最後まで候補に残っていたのはリオで、「恐らくリオの方が賢明な選択だっただろうけどね」とポールは振り返っています。
しかし、その準備を進めていた矢先、予想外の事態が起きます。事前リハーサルに顔を見せなかったヘンリー・マッカロク(ギター)が、音楽的見解の相違を理由にウイングスを脱退してしまったのです。さらに、ラゴスへ旅立つ前日になってデニー・シーウェル(ドラムス)が「アフリカに行くのは嫌だ」と言って、これまたグループを辞めてしまいました。こうして数日のうちに突然、メンバーの相次ぐ脱退によりウイングスは3人になってしまいました。幸いにももう1人のメンバー、デニー・レイン(ギター)はグループに残り、8月9日に予定通りポールとリンダと共にラゴスへ向かいました。メンバー全員が主役のウイングスを確立させようとしていただけにポールは大きなショックを受けますが、それをバネに「最高のアルバムを作って、脱退したことを後悔させてやる」と考えることにしたそうです。
【アルバム制作】
ラゴスに着いてからもポールは散々な目に遭います。現地はちょうど雨季の末期で、そこにモンスーンもやって来て、とてもビーチで休養できるような天気ではありませんでした。外を歩けばギャングに襲われ、デモ・テープやカメラを奪われる事件が起きました(おかげでポールは録り溜めていた曲想を頭で思い出す必要に迫られた)。とんでもなく高い温度と湿度にポールが意識を失いかけることもありました。さらにラゴスのEMIスタジオは建設中で、サウンド・ブースを即席で組み立てるという有様で、機材不足にも悩まされました。しかし、そうした災難がレコーディングに大きな支障をきたすことはありませんでした。ウイングスはリード・ギタリストとドラマーを欠いていましたが、そこはポールがマルチ・プレイヤーぶりを発揮してカヴァーします。リンダのキーボードとデニーのギターを除き、ここではドラムスを含むほぼすべての楽器をポールが演奏しています。ポールの奮闘をリンダやデニーも支え、3人は以前にも増してお互いを深く理解し合い、グループの結束を固くしました。また、エンジニアとして『リボルバー』『サージェント・ペパー』『アビイ・ロード』などビートルズの数々の名盤を手がけたジェフ・エメリックを連れて来ていたので、技術的な問題も気心知れたジェフ相手で意思疎通が容易でした。地元の音楽家フェラ・ランサム・クティが「ポールがラゴス・サウンドを盗もうとしている」と騒ぎ立てる一幕もありましたが、クリームのドラマーだったジンジャー・ベイカーの仲介で事なきを得ました(デニーはジンジャーのバンド、エアフォースに一時所属していたことがある)。この縁もあり、8のレコーディングは市内にあるジンジャーのARCスタジオで行われました。結局ウイングスは9月22日までラゴスに滞在し、当地で1・3・4・6・8・10が録音されています。
帰国後、10月にはロンドンのエア・スタジオで、エンジニアに再びジェフ・エメリックを迎え、残りの曲のレコーディングが行われました(2・5・7・9)。また、ラゴスから持ち帰ったテープにも手が加えられ、3・4にリバプール時代からの旧友ハウイー・ケイシーによるサックスがオーバーダブされました。この頃のセッションで3のパーカッションを担当したレミ・カバカは、皮肉にもレコーディングに参加した唯一のナイジェリア人となりました。さらに、T.レックスやデヴィッド・ボウイのプロデュースで知られ、当時メリー・ホプキン(ポールがアップル・レコードで育成していたアーティスト)と結婚していたトニー・ヴィスコンティに編曲を依頼し、1・2・7・8・9にオーケストラが導入されます。トニーはポールから2日ですべて仕上げるように言われ、死にそうに忙しい思いをしたとのこと。こうしていろんな人の助力を受けつつ、月内にすべての作業が終わりアルバムは完成しました。
有名なアルバム・ジャケットは、タイトル・ソング1をコンセプトにしたポールのアイデアで、脱獄して逃亡中のバンドに扮したポールたちがスポットライトを当てられ壁に張りついている所を写したもの。ウイングスのメンバー3人に加え、ポールの人選により各界の著名人がバンドのメンバー役として集められました。その顔ぶれは、クレメント・フロイト(国会議員)、クリストファー・リー(俳優)、ジェームズ・コバーン(俳優)、ジョン・コンテ(ボクサー)、ケニー・リンチ(歌手)、マイケル・パーキンソン(作家・司会者)。ジャケット写真は、10月28日にロンドン西部のオスタレイ・パークで、写真家のクライヴ・アロウスミスによって撮られました。この和気藹々としたフォト・セッションの模様は映像でも記録されており、このアルバムが「ポール・マッカートニー・アーカイブ・コレクション」シリーズの一環として再発売された際にボーナスDVDに収録されました。裏ジャケットもクライヴ・アロウスミスのプロデュースで、ウイングス3人のパスポート写真(もどき)をテーブルに置き、逃亡中のバンドを追うシークレット・サービスのデスクに見立てたもの(英国盤と米国盤とでは各写真の配置などに微妙な違いがあった)。インナー・スリーブの片面にはラゴスでの日帰り旅行中に撮影された写真が、もう片面には収録曲の歌詞が印刷されています。また、レコーディング・セッション中にリンダが撮影した写真を寄せ集めたポスターが付属していました。
【発売後の流れ】
アルバムに先駆け、10がシングル発売されました(1973年10月)。ウイングスが3人編成になってから初めての新譜で、全英12位・全米10位の中ヒットとなります。これを受け、シングル・ヒットを収録した方が売れ行きがよくなると判断したキャピトル・レコードの要請で、発売間近だったアルバムに米国盤のみ10が追加収録されることとなりました。そしてアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』は12月に世に送り出されます。英米共に発売当初は鈍い滑り出しで、チャートでも伸び悩みましたが、翌年に入りキャピトルの担当アル・コウリーの助言で2と1がシングルカットされると風向きは一気に変わります。英国では1974年7月27日より実に7週連続1位に輝き、その年で最もよく売れたアルバムとなりました。米国でも4月以降3回トップに躍り出るロングセラーとなり、1974年末までに世界中で600万枚を売り上げる爆発的な大ヒットを記録しました。シングルも好調で、1はウイングス2度目の全米No.1を獲得しました。
セールス面だけでなく評論家たちからも最大限の賛辞をもって迎えられました。かつてアルバム『ラム』を「'60年代ロックの腐敗のどん底」と言い切ったローリング・ストーン誌も、「元ビートルズの4人がこれまで発表したアルバムの中で最も優れた作品」と褒めたたえ、1974年のベスト・アルバムに選んでいます。また、いつもは辛口のジョン・レノンも「素晴らしいアルバムだ」と絶賛しました。さらに最後は1974年度グラミー賞を2つも受賞する(最優秀ポップ・パフォーマンス賞(グループ)と最優秀アルバム技術賞)という栄冠が待っていました。こうして、『バンド・オン・ザ・ラン』の大成功によりウイングスとポールは起死回生の大逆転で不動の地位を確立したのでした。ポールも結果に大満足のようで、このアルバムを自身のソロ・キャリアで最もお気に入りの1つに挙げているほか、1999年には25周年記念盤『バンド・オン・ザ・ラン スペシャル・リミテッド・ボックス』を発売しています。
【管理人の評価】
「ウイングスの最高傑作」「'70年代ロックの名盤」との呼び声も高い『バンド・オン・ザ・ラン』ですが、その最大の秘訣はやはり1曲1曲のメロディが極めて強力で、中途半端で投げやりな「捨て曲」が一切ない点にあるでしょう。組曲形式ながらとことんキャッチーなタイトル・ソング1や疾走感あふれるロック・ナンバー2はもちろん、3・7といったお得意のラヴ・ソングからブルース・ロックの5、壮大なピアノ曲9に至るまで、様々なスタイルにおいてポールの全キャリアを見渡しても最高級の楽曲がひしめき合っているアルバムなのです。当然ながらどの曲もファンの人気は高く、ベスト盤に多くの曲が収録されていますし、ウイングス以来ポールは6以外の全曲をライヴで取り上げたことがあるほどです。
その上でアレンジもよく練られていて、オーケストラがここぞという所で挿入されます(上物に頼りすぎず、あくまでピンポイントというのが効果絶大)。ポールは制作中に特別なテーマを意識したことはないと話していますが、2や4のメロディが8に登場したり、9が終わると1の一節がリプライズとして登場したりと、コンセプト・アルバムのような統一感があるのも特徴の1つです。ラゴス録音の曲とロンドン録音の曲とでカラーが異なるということもなく、芯がぶれない所も統一感に貢献しています(と言いつつ4のようにアフリカっぽいサウンドも潜んでいるのが面白い)。また、あまり語られることがないですが3・6・7などウイングスが強みとするポール、リンダ、デニーの3人による息の合ったコーラスワークが楽しめる曲が多いのは隠れた魅力でしょう。
難点を挙げるとすれば、あとほんの少し練っていればよかったのに・・・と思える部分があることでしょうか。メンバーが欠けた状態ではこれが限界だったのでしょうが、特に単調気味な5や、7のエンディング辺りはそう思えてなりません。また、サウンドの屋台骨となるポールのドラミングは、本職のドラマーに比べてどうしてもたどたどしさが滲んでしまっているので、(私は好きですが)人によって好き嫌いは分かれるでしょう。それから、アップテンポで派手な曲は意外にも序盤の1・2とラストの9くらいしかなく、アルバムの大半はゆったりした曲で占められています。10が収録されていない米国盤以外では特にそうで、後半に向けて(あくまでテンポ的な意味で)失速してゆくきらいもあります。そのため、「最高傑作」という言葉の響きからハイテンションの曲がずっと続くものと思い込んで聴くと、期待を裏切られる可能性が高いです。実際私も、1を聴いて「なんてキャッチーでポップなんだろう!」と感嘆してアルバムを買い、2まではよかったものの3からの流れに「あれっ?」となってしまった苦い経験があります・・・(汗)。きらびやかで勢いあふれるウイングスを聴きたいのであれば、『ヴィーナス・アンド・マース』『バック・トゥ・ジ・エッグ』といったアルバムをお勧めします。
とはいえ、ポール・マッカートニーを聴く者としてこのアルバムが絶対に避けられない1枚であることはまず間違いないでしょう。ここには、ウイングスを、そしてポールを代表する曲がいっぱい詰まっています。コンサートでおなじみの曲も多いですし、シングル・ヒットでなくともぜひ押さえておきたい優れた名曲がずらっと並んでいます。そしてその魅力は発売から40年以上経った現在でも色あせていません。ポールの類稀な才能を知る上では、ベスト盤級の教科書的存在と言っても過言ではないでしょう。そしてそんな名盤を、メンバーに逃げられアフリカでギャングに襲われながら作ったのですから、「危機的状況からよくぞ頑張った!」という感動にちょっとの不満も消し飛んでしまいます。個人的にはポールのソロ&ウイングス時代で最初に買ったアルバムなので思い入れも強いです。ちなみに、私は1〜5・7(ボーナス・トラックだと10)が特に好きです。
なお、このアルバムは2010年にリマスター盤シリーズ「ポール・マッカートニー・アーカイブ・コレクション」の一環としてヒア・ミュージックから再発売されました。初登場の未発表音源がたっぷりのボーナス・ディスクが追加されているほか、関連映像を収録したDVDも付いてくるので(一部仕様のみ)、今から買うとしたらそちらの方がお勧めでしょう。解説はこちらから。
アルバム『バンド・オン・ザ・ラン』発売50周年記念!収録曲+aを管理人が全曲対訳!!
1.バンド・オン・ザ・ラン
アルバムのタイトル・ソング。1974年6月28日に英国で、4月8日に米国でシングルカットされ、英国で最高3位・米国で最高1位。ウイングスを代表するヒット曲となった。ジョン・レノンが書いたビートルズ・ナンバー「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」をほうふつさせる、3つの異なる曲調の曲を1つにつなげた組曲形式で、スローな第1パートに始まり、ロック風味の第2パート、そしておなじみのキャッチーな第3パートへと展開してゆく。リンダが弾くムーグ・シンセの効果的な使用や、第2パートと第3パートの間に登場するオーケストラ、ポールが繰り出す独創的なドラミングなど聴き所いっぱい。歌詞は、ビートルズのアップルでの会議中にジョージ・ハリスンが漏らした「もしここを出られたら(If I ever get out of here)」という言葉を基にして書かれた。
代表曲だけあって、公式発表後ポールはウイングスとソロ双方でのすべてのコンサート・ツアーでこの曲を演奏している。ライヴではアルバム・ジャケットの撮影風景がスクリーンに映し出される。また、デニー・レインもこの曲を後年セルフ・カヴァーしたり、ライヴで演奏したりしている。『ウイングス・グレイテスト・ヒッツ』『オール・ザ・ベスト』『ザ・グレイテスト』『夢の翼〜ヒッツ・アンド・ヒストリー〜』『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』の各ベスト盤にも収録。私がポールのソロ&ウイングスを聴くきっかけになった曲で(この曲がTVの音楽番組の予告で流れていたのを聴いて感銘した)、今でも思い入れの強いお気に入りの1曲です。
2.ジェット
ウイングス、そしてポールのロック・ナンバーでも最高傑作の1つ。全体に鳴り響くムーグ・シンセ(間奏ではソロも登場)と重厚なブラス・セクションが曲のカラーを決めている。エンディングのサックスはハウイー・ケイシー。圧巻はやはりポールの野太いロック・ヴォーカルで、恐らくここで聴かれるものが最高のヴァージョンではないだろうか。リンダとデニーのコーラスも色を添える。タイトルの「ジェット」は当時ポールが飼っていた7匹のラブラドール犬のうちの1匹の名前から取ったとポール自ら語っていたが(1974年ローリング・ストーン誌のインタビュー)、2010年のインタビューでは一転してポニーの名前から取ったと発言している。歌詞は語呂合わせっぽく、ポールいわく特別な意味はないとのこと。
1974年2月15日にシングルカットされ、英国・米国共に最高7位を記録するスマッシュ・ヒットとなった。ウイングス時代から現在に至るまでポールのライヴでは定番曲で、ほぼすべてのコンサート・ツアーで取り上げられている。アルバムと同じく2曲目に演奏されることが多い。ウイングスの1975年〜1976年のワールド・ツアーでは「ヴィーナス・アンド・マース〜ロックショー」とのメドレーで演奏された。『ウイングス・グレイテスト・ヒッツ』『オール・ザ・ベスト』『ザ・グレイテスト』『夢の翼〜ヒッツ・アンド・ヒストリー〜』『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』の各ベスト盤にも収録。
3.ブルーバード
ボサノバ風の甘美なアコースティック・バラード。歌詞もとっても甘くロマンティックなラヴ・ソングに仕上がっている。曲自体は1971年頃に既に書かれていて、1973年春のTV番組「ジェイムズ・ポール・マッカートニー」でも披露されていた。間奏のサックス・ソロはハウイー・ケイシー、多彩なパーカッションはレミ・カバカ。ポール、リンダ、デニーの折り重なるようなコーラスワークも美しい。ウイングスの1975年〜1976年のワールド・ツアーではリズムボックスをバックに演奏された。その後2010年の「アップ・アンド・カミング」ツアーでひさしぶりにセットリスト入りした(一部公演のみ)。ベスト盤『夢の翼〜ヒッツ・アンド・ヒストリー〜』にも収録。
4.ミセス・ヴァンデビルト
アルバム収録曲中最もアフリカ色の強い曲。ステレオ左右に配されたアコースティック・ギターの乾いた音色と、フィルインを多用した「ヘタウマ」なドラミングが印象に残る。サックスはハウイー・ケイシー。「ホ、ヘイホ」(「与作」ではありません)を始めコーラスがとても楽しく、キャンプファイヤーで歌って踊るのにぴったりかも。一部ヨーロッパではシングル発売もされた(B面は「ブルーバード」)。
ウイングスのライヴでは演奏されなかったが、2008年にウクライナでのフリー・コンサートで初めて取り上げられ、2013年秋に「エヴリバディ・アウト・ゼアー」(この曲によく似ている)に替わられるまでセットリスト入りしていた。ベスト盤『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』にも収録。地味ながらもこの曲を好きな人は多いのではないでしょうか。私もそうです。
5.レット・ミー・ロール・イット
エレキ・ギターの激しいリフが炸裂するシンプルなブルース・ロックで、その作風はジョンのソロ・デビュー作『ジョンの魂』やシングル「コールド・ターキー」を模倣したのではないかと話題になった。歌詞についても当時仲の悪かったジョンへの和解を呼びかけたものとの憶測が広がったが、ポールは否定していた。しかし最近になって「この曲はジョンとやりたかった」とも述べている(なお、ジョンは1974年にこの曲によく似たギター・リフが登場する「ビーフ・ジャーキー」というインストを発表している)。スタジオ・ヴァージョンはオルガンの音色がクリスマス・カロルみたいにチープなのが面白いです(笑)。最後はフェイント付き。
シングル「ジェット」のB面でもあった(米国ではセカンド・プレス以降)。ウイングスは1975年〜1976年のワールド・ツアーで演奏しているほか、ポールは1993年のニュー・ワールド・ツアー以降のほぼすべてのコンサートで演奏しており、定番となっている。2003年からはこの曲に続けてジミ・ヘンドリックスの「フォクシー・レディ」の一節を弾くことが多い。ポールのお気に入りらしく『夢の翼〜ヒッツ・アンド・ヒストリー〜』『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』の各ベスト盤に収録している。アナログ盤はここまでがA面。
6.マムーニア
タイトルは「安息の地」を意味するアラビア語で、ウイングスのモロッコ旅行中に滞在したマラケシュのホテルの名前だった。雨にうんざりしている気持ちを歌った歌詞は、ラゴスでの体験がそのまま反映されている。しかし、曲は終始和やかで楽しそうな雰囲気だ。この曲でもウイングスならではのコーラスワークが光る(特にデニーの声がいい味を出している)。米国ではシングル「ジェット」のファースト・プレスのB面でもあった。ほぼフル・アニメーションのプロモ・ヴィデオも制作されたが、ほとんど放送されず長いこと幻の作品となっていた。英国盤『バンド・オン・ザ・ラン』では唯一、ポールがライヴで披露したことのない曲である。
7.ノー・ワーズ
前曲に間髪入れず始まる隠れた名曲。デニーが途中まで書いていた曲にポールが手を加えて完成させたもので、ポールとデニーの最初の共作曲となった(2人は後に「夢の旅人」「たそがれのロンドン・タウン」などを共作)。リード・ヴォーカルもこの2人で、息の合ったデュエットを聞かせる。中盤はポールの単独ヴォーカルとなり、マッカートニー・ナンバー屈指のハイ・トーンが登場する。また、ラゴスにも同行した2人のロード・マネージャー、イアン・ホーンとトレバー・ジョーンズがコーラスで参加している。ウイングスの1979年全英ツアーや、デニーのソロ・ライヴで再演されている。このアルバムで私が一番好きな曲で、恋人への献身的な愛を熱く歌い上げた詞作がお気に入りポイントです。
8.ピカソの遺言
1973年4月8日にこの世を去った画家パブロ・ピカソが最期に残した言葉「私の健康のために乾杯してくれ(Drink to me, drink to my health)」をテーマに書かれた曲。4月末に休暇でジャマイカを訪れたポールが、映画撮影のために当地に滞在していた俳優のダスティン・ホフマンと談笑しているうちにピカソの話題となり、ダスティンがピカソの最期を題材に曲が書けないかと提案した所、ポールはその場であっという間に1曲完成させてしまい、ダスティンをいたく感動させたというエピソードが残っている。
パブで歌われていそうなゆったりとしたアコースティック・ナンバーだが、前衛的な作品を送り続けたピカソを題材にしたことからか複数の曲の断片を寄せ集めたような「音楽の切り絵」になっている。ストリングスをフィーチャーした中間部には「ジェット」のワン・フレーズが登場するほか、エンディングは唐突に「ミセス・ヴァンデビルト」の「ホ、ヘイホ」に切り替わる。第1節のみデニーがリード・ヴォーカルを担当し雰囲気作りに貢献している。「ミセス・ヴァンデビルト」の箇所に登場するシェーカーは、ジンジャー・ベイカーが小石の詰まった消火バケツを振ったもの。ウイングスは1975年〜1976年のワールド・ツアーで前半部分を「リチャード・コーリー」とのメドレーで演奏した。デニーも後年セルフ・カヴァーを出している。
9.西暦1985年
アルバムのラストを飾るのは、ミドル・テンポのクールなロック・ナンバー。ポールのピアノが曲を引っ張り、ムーグ・シンセやハモンド・オルガンが次作『ヴィーナス・アンド・マース』へつながるSF要素を醸し出している。ポールはやや鼻にかかったヴォーカル・スタイルで歌っているが、間奏でのアドリブがノリノリ。エンディングはポールのシャウトがまくし立てる中、オーケストラも交えて壮大に展開してゆく。曲が終わると1曲目の「バンド・オン・ザ・ラン」の一節が登場するのはいかにもポールらしい。歌詞はジョージ・オーウェルの小説「1984」を踏まえ、「翌1985年に人類が滅びようと君は僕のものだよ」という他愛ないラヴ・ソング。
米国や日本ではシングル「バンド・オン・ザ・ラン」のB面でもあった。1974年に制作されたウイングスのドキュメンタリー作品「ワン・ハンド・クラッピング」では、ポールがハンドマイク片手にカラオケで熱唱するという何ともかっこいいシーンを見ることができる。2010年の「アップ・アンド・カミング」ツアーで初めてライヴで演奏され、以降のツアーでも引き続きセットリスト入りしている。ベスト盤『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』にも収録。
〜ボーナス・トラック〜
10.愛しのヘレン
1973年10月26日に発売されたシングルで、英国で最高12位・米国で最高10位。ラゴスでレコーディングされ、リンダがとても気に入ったためシングルとなった。キャピトル・レコードの要請で米国盤『バンド・オン・ザ・ラン』のみ「ノー・ワーズ」と「ピカソの遺言」の間(8曲目)にこの曲が収録された。ほぼワン・コードで進行する陽気なシャッフル・ナンバー(日本での当時のキャッチコピーは「強烈なロック・ブギー」)で、リンダが弾くムーグ・シンセとポールの軽快なドラムさばきが聴き所。リンダとデニーのコーラスも楽しい。
タイトルの「ヘレン・ホイールズ」とはポールが愛車のランドローバーに付けた名前で、歌詞ではポールの農場があるスコットランドからグラスゴー、カーライル、ケンダル、バーミンガムを通ってロンドンまで至る道中が歌われている。プロモ・ヴィデオにはドライヴを楽しむウイングスの姿が登場するほか、ポールのマルチ・プレイヤーぶりを映像でも堪能できる。ベスト盤『夢の翼〜ヒッツ・アンド・ヒストリー〜』にも収録。ウイングスのシングルでも私のお気に入りの1つです。
11.カントリー・ドリーマー
シングル「愛しのヘレン」のB面だった曲。初CD化の際には前作『レッド・ローズ・スピードウェイ』のボーナス・トラックに収録されていた。「ポール・マッカートニー・アーカイブ・コレクション」シリーズでは、『バンド・オン・ザ・ラン』(2010年再発売)及び『レッド・ローズ・スピードウェイ』(2018年再発売)のボーナス・トラックに収録されている。レコーディングは『レッド・ローズ・スピードウェイ』セッション中の1972年9月26日に行われ、当初は同作に収録予定だった。ウイングスがまだ5人編成だった頃の録音で、ヘンリー・マッカロクがギターを、デニー・シーウェルがドラムスを演奏している。ポールは第2節以降を第1節の1オクターブ上の音程で歌っている。歌詞はポールらしい田舎暮らしをテーマにしていて、「故郷のこころ」にも通じる。
ポールの音楽版権会社MPLの推薦で、日本のコーラス・グループ「ブラウン・ライス」に当時未発表だったこの曲を提供したが、ポールの方が先にウイングスのシングルとして発表してしまった。ブラウン・ライスのヴァージョンは1973年12月25日に「カントリー・ドリーマー(さすらう青春)」としてA面に日本語ヴァージョン(作詞は阿久悠!)を、B面に英語ヴァージョン(作詞はもちろんポール&リンダ)を収録したシングルとして発表された。日本語ヴァージョンはアルバム『旅の終りに』(1975年6月20日発売)にも収録されている。ウイングス・ヴァージョンもブラウン・ライス・ヴァージョンもとってもほのぼのしていますよね。