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ポールにとってはビートルズ時代・ウイングス時代を含め初の試みとなる、他アーティストの楽曲のカヴァーに特化したアルバム。このアルバムの収録曲中1〜3、5〜14はソ連限定発売のオリジナル版に収録されていた曲で、4は1991年の初CD化及び全世界での解禁の際に追加されたボーナス・トラックです。ソ連では、まず11曲入りのファースト・プレスが出回り、続いて8・10の2曲を加えた全13曲収録のセカンド・プレスが発売されました。一方、CDでのボーナス・トラック4は同時期のセッションで録音され、英米ではシングルB面に収録されていた曲です。全曲がロックンロールのカヴァー・ヴァージョンで、ポールの自作曲はありません。
【時代背景】
1980年12月8日に起きたジョン・レノン殺害事件。唯一無二の親友だったジョンの訃報に、ポールは計り知れないショックを受けたのみならず、それまで精力的にこなしてきたライヴ活動に終止符を打ってしまいます。「次は自分が狙われるかもしれない」という恐怖から、人前に出て演奏することを躊躇したためでした。ウイングスもほどなく空中分解し、ソロ・アーティストに戻ったポールはスタジオワークに専念。そのまま数年が経過したものの、チャリティ・コンサート「ライヴ・エイド」(1985年7月13日)でわずか1曲をピアノ弾き語りで披露したのを除き、ポールのステージ復帰はなかなか実現しませんでした。他方、アルバムのセールスと評価は徐々に下降線をたどってゆき、起死回生を図った自信作『プレス・トゥ・プレイ』(1986年9月発売)に至っては今まで経験したことのない不振に終わります。どうすればこの低迷期を脱出できるのか─何とか軌道修正したいポールは思いを巡らせます。
そんな折に舞い込んできたのが、チャールズ皇太子主宰の慈善事業「プリンス・トラスト」10周年を祝した記念コンサートの話でした。1986年6月20日、ロンドンのウェンブリー・アリーナで開催されたこの日のステージにポールはトリとして出演。エルトン・ジョン、エリック・クラプトン、ティナ・ターナー、ロッド・スチュワート、フィル・コリンズなどオールスターの顔ぶれにサポートされ、「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「のっぽのサリー」「ゲット・バック」の3曲を(うち前者2曲はオリジナル・キーで)歌いました。40歳になった頃にはロックンロールなんかしていないだろうと思っていたポールにとって、白熱したパフォーマンスでひさしぶりに観客を沸かせることができた感動は「ライヴ・エイド」を凌駕したようで、同年9月のインタビューでは「陶酔しちゃったよ。最高の気分で、毎晩やってもいいくらい。だからバンドがほしいんだ」と興奮気味に語っています。スタジオワークの行き詰まり、そして「プリンス・トラスト」から得た刺激は、ポールがライヴ活動の再開へ大きく舵を切るのを促すに十分でした。
【アルバム制作】
新しいバンドを率いてステージに戻るという目標ができた所で、ポールは第一歩として古き良き時代のロックンロール・ナンバーをカヴァーしてみようかと思い立ちます。かつて似た状況下にあったビートルズが、「ゲット・バック・セッション」で新曲の合間に数多くのオールディーズを気ままに取り上げたように、多感な10代の頃に聴き親しみ、強い影響を受けた曲たちを通して自らの音楽の原点を今一度見つめ直し、仲間と楽しく演奏することの喜びを再確認しておきたかったのです。フィル・ラモーンをプロデューサーに迎え断続的に進められてきた新作用のレコーディングが一段落した1987年夏、ポールはロンドンのスタジオにミュージシャンを次々に誘い、バンドのメンバー候補探しも兼ねた週末のジャムにふけるようになっていましたが、7月の第3週にはその音源を記念に残そうと思いつきます。カヴァー曲を中心に計22曲をたった2日間で録音したロックンロール・セッションがこうして幕を開けました。
初日・7月20日はポールがベースを弾き、ギタリストにザ・パイレーツのミック・グリーン、ピアニストにイアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズのミッキー・ギャラガー、ドラマーにはジュリアン・コープのバック・バンドにいたクリス・ウィットンという布陣。クリスは「朝の5時に打診の一報を聞いた時は興奮して眠れなかったよ」と振り返っていますが、彼はこれをきっかけにポールに重用されるようになり、次作『フラワーズ・イン・ザ・ダート』でもドラムスをたたいたほか、直後のワールド・ツアーのツアー・バンドにも加わっています。近頃は凝った音作りがすっかり定着していましたが、今回はエルビス・プレスリーやバディ・ホリーなど憧れのロックンローラーのレコードと同じ音の感触を生み出すため、リハーサルもそこそこに'50年代の手法を踏襲した一発録りのスタジオ・ライヴ形式で臨むことに決めました。楽器・ヴォーカルのオーバーダブも極力施さず、シンプルな4ピース・サウンドにとどめています。最終的にアルバムに収録されることとなる曲のほとんどが初日の録音で、1990年のトリビュート・アルバムに提供されたエルビス・ナンバー「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」もレコーディングしました。
ミック・グリーンが欠席した翌21日は、ポールはギターに持ち替え、元ザ・モーターズのニック・ガーヴェイが代わりにベースを担当しました。また、クリスの後任として、エリック・クラプトンやジョージ・ハリスンの作品で知られるセッション・ドラマーのヘンリー・スピネッティ(ビートルズの映画でおなじみの俳優ヴィクター・スピネッティの弟)が参加しています。キーボードは前日に続きミッキー・ギャラガー。この日は7・11・12と、シングルB面で後年陽の目を浴びるポールの自作曲「アイ・ウォナ・クライ」が取り上げられます。そして3日目の22日に、エンジニアのピート・ヘンダーソンと一緒に各曲のミックス・ダウンを行い、手際よくすべての作業を完了させてしまいました。アルバム未収録に終わった曲のうち、現在に至るまで未発表なのは6曲。カヴァー曲「カット・アクロス・ショーティー」「ノー・アザー・ベイビー」「プア・ボーイ」「テイク・ディス・ハンマー」「レンド・ミー・ユア・コーム」と、ビートルズ・ナンバーの再演「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」です。
アルバム・ジャケットは1987年のベスト盤『オール・ザ・ベスト』に続いてマイケル・ロスが手がけ、オリジナルのソ連盤と全世界共通盤(CD)とではアーティスト名・タイトル表記や色合いに若干の差異があるものの、類似のデザインが使用されています。赤と黄色の星はソ連の国旗をイメージしたのでしょうか。マイクに向かってシャウトするポールを捉えたジャケット写真はリンダの撮影で、実はアルバム『ラム』(1971年)のセッションで「ロード・オールナイト」という曲を録音した時のものです。ソ連盤の裏ジャケット(全世界共通盤ではブックレット)にはポールからソ連のリスナーへのメッセージと、ニュー・ミュージカル・エクスプレス誌のロイ・カーによるスリーブ・ノートが(ソ連盤はロシア語で)掲載されていますが、ロンドンで用意されたアートワークが当初はソ連側に適切に伝達されず、ファースト・プレスではアンドレイ・ガヴリーロフなる人物が執筆したスリーブ・ノートに差し替えられてしまっていました。
【発売後の流れ】
一連のセッションに満足したポールは、周囲の声にも背中を押されアルバムのリリースを検討します。「いつもと違うことがしたかった」と後に回想しているように、最初は冗談半分でロシア製の海賊盤を装ったパッケージにするつもりでした。ロックを「西側諸国の退廃の象徴」とみなし長年シャットアウトしてきたソ連で、ビートルズを含め大量の不正商品が蔓延していた実態を皮肉ったのです。このアイデアはレコード会社の反対に遭いボツとなってしまいますが、共感したマネージャーのリチャード・オグデンはロシア製の海賊盤を50枚取り寄せ、ポールにクリスマス・プレゼントとして贈りました。その際目に留まったのが、ソ連の国営レコード会社・メロディアの名前。レーベルの存在を知ったポールは「メロディアの工場でアルバムを製造し、ソ連限定で発売したら面白いのでは?」とすかさず新アイデアをひらめきます。この提案が今度は許可されると早速メロディアとの交渉が始まり、乗り気のオグデンが自らモスクワに赴いて、言語と慣習の壁を乗り越え契約にこぎつけました。アルバム・タイトルは『Снова в СССР』(キリル文字表記)と命名。これは「スノーヴァ・ヴ・エスエスエスエル」と読み、ポールがソ連を題材に書いたビートルズ・ナンバー「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」のタイトルを意訳したものです。
レコーディングから1年あまりが過ぎた1988年10月、アルバムは40万枚限定生産・国外への輸出禁止という制約のもとソ連国内のみで発売されます。5万枚用意されたファースト・プレスは瞬く間に売り切れました。翌年1月までには、ファースト・プレスではメロディアの独断でオミットされていた8・10を加え、13曲入りに修正したセカンド・プレスが早くも投入されています。こちらの売れ行きも好調で、結果的に海外アーティストとしてソ連初のゴールド・ディスクを獲得。1990年1月26日に開催されたセレモニーでメロディアからディスクが贈呈されました。
一方、英米などの他国では収録曲の半数がシングルB面でバラ売りされるにとどまりました。アルバムについてポールの口数も少なく、英国チャンネル4のトーク番組「ザ・ラスト・リゾート」(1987年11月27日放送)で3・7を披露したのが唯一プロモーションと言える活動でした。西側諸国のリスナーは普段とは打って変わって入手に難儀する側に立たされますが、それでも高まる需要はやがて海賊盤の出現を招いてしまいます。また、正規盤に関しても闇市場を通して輸入されたものが定価を大幅に上回る法外な額で取引される事態に。これにはオグデンも静観できず、メロディアの在庫から一定数を急遽買い戻し、ファンクラブの会員向けに適正価格で販売する異例の対応を取りました。そしてソ連でのリリースから3年後の1991年9月(米国では10月)に、垂涎の1枚と化していたロシアン・アルバムはようやく全世界で発売が解禁され、同時に初CD化を果たしました。この時は4をボーナス・トラックに追加し全14曲を収録しています。くしくも同じ頃、共産主義大国として69年にわたり勢威を示してきたソ連が急速に崩壊の一途をたどっていました。
【管理人の評価】
ロックンロールのカヴァー・アルバムとして本作とよく比較されるのが、ポール本人による第2弾と呼べる『ラン・デヴィル・ラン』(1999年)と、かつての相棒ジョンが同様のコンセプトで制作した『ロックン・ロール』(1975年)です。この2枚との共通点・相違点を通じてアルバムの特徴を見てゆきましょう。まず曲目ですが、数あるオールディーズの中からポールの思い入れが強い曲が選ばれていて、ポールの音楽的ルーツが分かります。特にファッツ・ドミノ、エルビス・プレスリー、リトル・リチャードは複数曲カヴァーされ、強い影響力をうかがわせます(ポールが敬愛してやまないバディ・ホリーの曲がないのは意外)。『ロックン・ロール』とかぶった選曲の5・11や、ビートルズ時代にも公式発表した1の再演が興味深いですが、ジャズのスタンダード・ナンバー(7・10)から米国のトラディショナル・ソング(14)まで守備範囲の広さにも注目。初めてのカヴァー・アルバムということもあり、マニアックな曲も散見される『ラン・デヴィル・ラン』よりも有名どころをメインに取り上げた感があります。
前述の通り、このアルバムではスタジオ・ライヴ形式が採用され、ほぼすべてを一発録りで完成させました。それゆえ、オーバーダブを繰り返し1曲ごとに時間をかけていた'80年代ポールの音作りとは真逆に超シンプル。正確性よりその場のノリを重視することで、原曲が持っていたポールいわく「クールな意味での大雑把」ぶりの再現に成功しています。この点は、ジョンが原曲を大胆に解釈し、ブラス・セクションや過剰なエコーを加えて派手に仕上げた『ロックン・ロール』とは対照的です。一方で、発表するつもりのないジャム・セッションから発展した経緯もあいまって、最初からアルバム化を念頭に置いた『ラン・デヴィル・ラン』に比べて迫力が今一つ足りない所があるのは否めません。特にポールのヴォーカルは、数年のうちに錆びついてしまったライヴ感覚を取り戻すリハビリ途上で、本調子とは程遠いものなのは致し方ないでしょう(もっとも、『ラン・デヴィル・ラン』もライヴ活動が長期間途絶えた後の録音でしたが)。また、構成がやや冗長な曲(8・9)や、エンディングが定まっておらず中途半端な印象を与える曲(7・13など)が見られるのも惜しまれます。
ポールの自作曲が収録されていないため、これからポールのソロを聴こうとしている方にとってはオリジナル・アルバムよりどうしても優先度が落ちますし、一連のカヴァー・アルバムではパワー全開の『ラン・デヴィル・ラン』を最もお勧めしますが、「ポールにとってロックとは何か?」を知るには必聴の1枚です。稀代のシンガーソングライターとして大成したポールの原点を発見できるのはもちろん、肩の力を抜いた演奏は常に楽しんで音楽に向き合う姿勢を教えてくれます。初期ビートルズ(特にBBCセッション音源)のようなオールド・スタイルのバンド・サウンドがお気に入りという方にはうってつけでしょう。また、冷戦末期にロックを介して平和的な東西交流に貢献した点でも賞賛されるべき作品です。裏ジャケットに掲載されたポールの「ソ連のみんなに平和と友情の手を差し伸べたいんだ」という言葉が、ソ連のファンと直接会話した異例の電話インタビューの実現(1989年1月26日)、そして念願のロシアでの初公演(2003年5月24日)につながっていったと考えると感慨深いですね。ちなみに、私は2・7・8・11・12が特に好きです。
なお、このアルバムは2019年に最新のリマスター音源を使用する形でキャピトルから再発売されました。日本盤のみSHM-CD・紙ジャケット仕様で、ソ連盤ファースト・プレスのアートワークが忠実に再現されていますが、曲目もファースト・プレスに準拠しているため4・8・10が未収録である点には注意が必要です。
アルバム『バック・イン・ザ・U.S.S.R.』発売30周年記念!収録曲+aを管理人が全曲対訳!!
1.カンサス・シティ
リトル・ウィリー・リトルフィールドが1952年に「K.C.ラヴィング」のタイトルで発表したのがオリジナルで、1959年にウィルバート・ハリスンが取り上げ全米No.1を獲得している。同年にはリトル・リチャードが自作曲「ヘイ・ヘイ・ヘイ・ヘイ」とのメドレーでカヴァー。これを参考に、アルバム『ビートルズ・フォー・セール』(1964年)収録のビートルズ・ヴァージョンが録音された。
このアルバムでの再演は、曲構成・歌詞共にウィルバート・ハリスンのヴァージョンに近いが、クレジットされていないものの「ヘイ・ヘイ・ヘイ・ヘイ」も途中登場する。ポールのリトル・リチャードばりのリード・ヴォーカルと、やや投げやりなコーラスが楽しい。英国ではシングル「ワンス・アポン・ア・ロング・アゴー」(12インチ第2弾とCD)のB面でもあった。ソロ時代のコンサートではカンサス・シティを訪れた際に特別に演奏されたほか、1997年9月15日の「モントセラト島救済コンサート」ではオールスターによるラスト・ナンバーに選ばれた。
2.トゥエンティ・フライト・ロック
エディ・コクランが映画「女はそれを我慢できない」(1956年)で披露したロカビリー・ナンバー。ビートルズの前身バンド、ザ・クオリーメンにポールが加入するきっかけとなった曲で、ジョン・レノンと初めて会った日に弾き語ってみせた所、ジョンは(主に歌詞を完璧に覚えている点で)ポールの才能にいたく感服したという。そんな思い出深い1曲を、ここではタイトなエレキ・サウンドで聞かせる。ウイングスの1979年全英ツアーや、1989年〜1990年の「ゲット・バック」ツアー(一部公演を除く)、1999年と2018年のキャヴァーン・クラブでのライヴなどたびたびセットリスト入りしているのもお気に入りの証拠。私も、このアルバムで一番好きです。
3.ローディ・ミス・クローディ
1952年にシングル発売されたロイド・プライスのデビュー曲で、黒人のR&Bが白人の音楽市場で大いに受けた先駆的な大ヒットに。ポールがこの曲を公式にカヴァーするのはビートルズ最後の映画「レット・イット・ビー」以来である。原曲ではファッツ・ドミノが弾いていたブギウギ・ピアノをミッキー・ギャラガーが再現し、荒々しい演奏を引っ張る。一方、TV番組「ザ・ラスト・リゾート」ではエルビス・コステロ&ジ・アトラクションズのメンバーらがバックをつとめた。英国では12インチシングル「ワンス・アポン・ア・ロング・アゴー」(第2弾のみ)のB面でもあった。
4.アイム・イン・ラヴ・アゲイン
オリジナルはファッツ・ドミノが1956年にヒットさせた曲で、ポールはドミノ譲りの野太い声にシャウトを織り交ぜて歌う。この曲はソ連盤には未収録で、1991年にアルバムがワールドワイド発売された際にボーナス・トラックとして追加された。なお英米では、20秒ほど短いエディット・ヴァージョンを1989年のシングル「ディス・ワン」(12インチとCD)のB面で先行して聴くことができた。ハンブルク時代からの旧友クラウス・フォアマンがベースを、リンゴ・スターがドラムスを、ポールが残りの楽器とヴォーカルを担当した夢の共演によるカヴァーが2008年に実現している(翌年にクラウスのアルバム『ア・サイドマンズ・ジャーニー』で発表)。
5.ブリング・イット・オン・ホーム・トゥ・ミー
「キング・オブ・ソウル」ことサム・クックの代表曲(1962年)。全英7位のアニマルズを筆頭にカヴァー・ヴァージョンが数多く、「自分をニューヨークに導いた曲」と評していたジョンもアルバム『ロックン・ロール』で取り上げた(リトル・リチャードの「センド・ミー・サム・ラヴィン」とのメドレー形式)。ジョンの方はずいぶん勇ましいが、ポールはせつないロッカ・バラードのアレンジで原曲により近づけている。間奏のギター・ソロはミック・グリーン。2006年にジョージ・ベンソンとアル・ジャロウが共演したヴァージョンにも、ポールがヴォーカルで飛び入り参加している。
6.ルシール
オリジナル・アーティストはリトル・リチャードで、1957年のヒット・シングル。ポールのお気に入りで、ビートルズ時代には英国BBCのラジオ番組で何度か披露していた。その後、ウイングスでも1972年の大学ツアーと、最後のライヴとなった「カンボジア難民救済コンサート」(1979年12月29日)で熱演を聞かせている(後者はポールが企画したロック・プロジェクト「ロケストラ」が再結成)。このアルバムのヴァージョンも、リトル・リチャード直伝の絶叫ヴォーカルを惜しみなくフィーチャーした痛快な仕上がり。
7.ドント・ゲット・アラウンド・マッチ・エニィモア
1940年にジャズの巨匠デューク・エリントンが書いたインスト「ネヴァー・ノー・ラメント」に、ボブ・ラッセルが歌詞を付け、第二次世界大戦で戦地に赴いた米国兵の間で人気を博した。インク・スポッツからシカゴまで世代を超えてカヴァーされていることでも知られる。一見ロックンロールに無関係そうなこの曲を選ぶ所にポールの音楽的引き出しの幅広さを感じると共に、ストレートなロックのアレンジに上手く落としきっている辺りはさすがとしか言いようがない。7月21日の録音で、リード・ギターはポールが弾いている。
スタジオ・ヴァージョンは中途半端にフェードアウトしてしまうのが残念だが、TV番組「ザ・ラスト・リゾート」ではしっかり練られたエンディングでかっこよく締めた。英国ではシングル「ワンス・アポン・ア・ロング・アゴー」(12インチ第1弾とCD)のB面でもあった。これも私が好きな曲ですね。ソ連盤ファースト・プレスはここまでがA面。
8.アイム・ゴナ・ビー・ア・ウィール・サムデイ
ボビー・ミッチェル&ザ・トッパーズのローカル・ヒット(1957年)で、続く1959年にはファッツ・ドミノがシングル「アイ・ウォント・トゥ・ウォーク・ユー・ホーム」のB面ながらチャート・インしたカヴァーを残している。ポールのヴァージョンは後者のドミノの方に近いが、ドラム・ソロを随所に挟んで軽快さを強調した楽しい仕上がりに。ソ連盤ファースト・プレスでは、収録曲数が多すぎると考えたメロディアにより勝手にオミットされてしまっていた。英米ではシングル「マイ・ブレイヴ・フェイス」(12インチとCD)のB面でもあった。ソ連盤セカンド・プレスはここまでがA面。
9.ザッツ・オール・ライト・ママ
元々は作曲者のアーサー・クルーダップが1946年に発表したが、1954年にエルビス・プレスリーがサン・レコードからのデビュー曲として録音したものが有名。エルビスの大ファンであるポールが参考にしたのももちろん彼のヴァージョンで、この曲を正式に取り上げるのはビートルズのBBCセッション以来であった。その時と同様エルビスそっくりのヴォーカル・スタイルでポールは歌う。2001年発表のサン・レコードのトリビュート・アルバムでは、スコッティ・ムーアとD.J.フォンタナ(共にエルビスのバック・バンドをつとめた)を招いて再演している。
10.サマータイム
初出はジョージ・ガーシュウィンが手がけたオペラ「ポギーとベス」(1935年初演)。今では、ジャズ界を中心に無数のカヴァー・ヴァージョンが存在するスタンダード・ナンバーになっている。ポールは、ジャニス・ジョプリンが熱唱したビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーによる名カヴァーを意識したかのような渋いブルース・ロックに解釈した。翌日のセッションで、これに酷似したアレンジの自作曲「アイ・ウォナ・クライ」を録音しているのが興味深い。この曲も、ソ連盤ファースト・プレスには未収録に終わった。
11.エイント・ザット・ア・シェイム
またもやオリジナルはファッツ・ドミノ。1955年に発売され、ミリオン・セラーになった大ヒット曲で、ジョンが『ロックン・ロール』で先にカヴァーしていた(ただしポールの方が原曲に忠実)。序盤はドミノの歌い方を割と踏襲しているが、やがて力強いシャウト・ヴォーカルをあらわにしてゆく。7月21日の録音で、間奏のギター・ソロはポール。英米ではシングル「マイ・ブレイヴ・フェイス」(12インチとCD)のB面でもあった。カヴァー曲ながら、1989年〜1990年の「ゲット・バック」ツアーでは堂々とセットリスト入りした(一部公演を除く)。
12.クラッキン・アップ
自身の名を冠した独創的なビートで頭角を現したボ・ディドリーが1959年に発表した曲。ポールのヴァージョンは7月21日の録音で、ボ・ディドリー特有のトレモロを利かせたギター・リフをポールが再現している。このアルバムでは珍しいオルガンはミッキー・ギャラガー、ベースとコーラスはニック・ガーヴェイ。適度に力が抜けていて何だか楽しいですね。ポールがライヴ活動を再開した1989年から1993年まではサウンドチェックでの定番となっていた。
13.ジャスト・ビコーズ
1929年にネルストーンズ・ハワイアンズが最初に録音した曲を、シェルトン・ブラザーズが1933年に改作して世に広めた。最も成功したカヴァーはエルビス・プレスリーで、サン・レコード時代に残したもの(発表は1956年)。ジョンが『ロックン・ロール』で取り上げたロイド・プライスの曲とは同名異曲である(TVアニメ「Just Because!」や夏目美緒ちゃんのことを歌っているわけでもありません)。ポールはエルビス・ヴァージョンを模倣し、ヴォーカルはすっかりエルビスになりきっている。この曲も、一時期サウンドチェックで盛んに演奏されていた。
14.ミッドナイト・スペシャル
米国の囚人たちの間で歌い継がれてきた作曲者不詳のトラディショナル・ソング。テキサス州ヒューストン近郊のシュガーランドにあった刑務所(場所に関しては諸説あり)の脇を毎晩列車が走り、そのライトを窓越しに浴びた囚人は早く釈放されるという言い伝えを歌にしている。パブリック・ドメインのため、古くはレッドベリーから'60年代末に流行ったクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルに至るまで多くのアーティストが独自の解釈で自由にカヴァーしてきた。
ポールのヴァージョンは明朗なフォーク・ロック風のアレンジで、作中で唯一アコースティック・ギターが使用されている。英国では12インチシングル「ワンス・アポン・ア・ロング・アゴー」(第1弾のみ)のB面でもあった。ポールのお気に入りのようで、サウンドチェックでは今なお頻繁に演奏されているほか、1991年に出演した米国MTVの番組「アンプラグド・ショー」(アルバム『公式海賊盤』には収録されず、シングル「バイカー・ライク・アン・アイコン」で陽の目を浴びた)や、全米ツアーでヒューストンに立ち寄った際など本番でも稀に披露してくれた。