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このアルバムの収録曲中1〜14はオリジナル版に収録されていた曲で、15〜17はCDでのボーナス・トラックです。初CD化及び、「ザ・ポール・マッカートニー・コレクション」シリーズでの再発売(1993年)の際には、このアルバムと同じ1979年発売のシングルに収録された15・16・17(16・17のクレジットはポールのソロ名義)の3曲がボーナス・トラックとして追加されました。
収録曲のうち、デニー・レインが書いた5を除く全曲がポール本人による作曲です。ただし12は、曲はポールの自作ですがイアン・ヘイとジョン・ゴールズワージーの文学作品が朗読の形で引用されています。
【時代背景】
アルバム『ロンドン・タウン』(1978年3月発売)は完成したものの、その制作過程でメンバーを2人失ったウイングスは再び3人編成になってしまいました。リンダを育児に専念させるためコンサート・ツアーの予定はありませんでしたが、ポールはウイングスの将来を占う次の一手に「メンバーの補充」を選びます。まず2月には、エルトン・ジョンのアルバム『シングル・マン』のレコーディングに参加していたセッション・ドラマーのスティーヴ・ホリーを迎え入れました。『ロンドン・タウン』からの第1弾シングル「しあわせの予感」のプロモ・ヴィデオにはスティーヴが早速出演しています。続いて5月には、ナショナル・ユース・ジャズ・オーケストラやクレオ・レインと共演した経験もあるローレンス・ジュバーがオーディションを経てリード・ギタリストに抜擢されました。ロンドン大学で音楽学士号を取得し、知識も豊富なローレンスについて「バンドの中では音楽の先生みたいな存在だ」とポールは語ります。この2人はいずれもオリジナル・メンバーのデニー・レインがポールに紹介する形で加入しており(スティーヴは当時デニーの近所に住んでいて、ローレンスは前年の「デヴィッド・エセックス・ショー」でデニーのバックをつとめたことがある)、信頼の置けるデニーの知り合いであればメンバー間に時折発生してきた問題も起きないであろう・・・とポールを安心させる布陣でもありました。こうして、新たなラインアップに進化したウイングスは最後の羽ばたきを始めます。
ポールはこの時期、大躍進を遂げたウイングスをデビューした頃のスタイルに戻そうと考えていました。元々ウイングスは、リンダと一緒にステージに立ちたい・・・というポールの思いから結成されたバンド。つまり、ウイングスの原点はライヴ活動であり、新生ウイングスでの最初の目標をしばらく遠ざかっていたステージへの復帰としたのです。その実現に向けて、ライヴ映えするストレートなロック・アルバムの制作が始まろうとしていました。
【アルバム制作】
まず手始めに、共同プロデューサーにクリス・トーマスを招きました。ビートルズ解散後は基本的にポールのセルフ・プロデュースだったので、外部の人間にアルバムのプロデュースを依頼するのはこれが初めてでした。トーマスはビートルズの『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』のプロデュースを一時期任せられた実績があり、'70年代にはピンク・フロイドやセックス・ピストルズ、ロキシー・ミュージック、日本のサディスティック・ミカ・バンドなどを手がけていました(後年にはウイングスの映画「ロックショウ」やポールのソロ・アルバム『ラン・デヴィル・ラン』も担当)。エンジニアには、ポールの要望でビートルズ時代と同じフィル・マクドナルドを起用しました。トーマスが共同プロデューサーに就いて最初のレコーディングは1978年5月5日のことで、映画用に書かれた新曲「セイム・タイム・ネクスト・イヤー」でした(ただしこの曲はお蔵入りになってしまう)。
アルバム・セッションが本格的に始まったのは6月29日からで、7月27日まではスコットランドの農場にあるポールの自宅スタジオ「スピリット・オブ・ラナカン・スタジオ」にて、ロンドンのRAKスタジオから機材を調達して4・5・6・7・9・11などを録音しました。期間中の7月5日には、ポールが映画化版権を持つ漫画「くまのルパート」のサントラ用に12曲を1日で仕上げていますが、未発表に終わっています。9月11日〜29日は14世紀の古城リム・キャッスル(ケント州)に場所を移し、再びRAKスタジオの機材を使用して優雅かつ奇抜なセッションを行いました。お城の大広間や台所をスタジオ代わりにしたのだから驚きです。ここでは1・3・10・12などが録音され、11がリメイクされました。城を貸してくれたお礼として、リム・キャッスルの所有者であるマーゴリー夫妻が1・12に参加しています。
10月3日には、おなじみロンドンのアビイ・ロード・スタジオでポールがかねてから構想していた「ロケストラ」のレコーディングを敢行。「大勢のミュージシャンがオーケストラのように順番にソロ・プレイを披露するロック」という趣旨に沿って、ポールはブリティッシュ・ロック界のスターたちに電話で直接参加を呼びかけました。「誰も来てくれなかったらどうしよう」というポールの心配をよそに、結果的にはウイングスを含め総勢23人が集まりました。16トラックの機材に加え60本ものマイクと2台のミキシング・コンソールを使用して、1日かけて8・13の2曲を録音しました。この時の模様は映像としても記録され、後に「ロケストラ」というドキュメンタリー・フィルムにまとめられています。ピート・タウンゼントが「毎年クリスマスにはこれをやるべきだ」という言葉を残しているように、豪華な顔ぶれによるスーパー・セッション「ロケストラ」は大成功に終わりました。
その後、11月まではアビイ・ロード・スタジオにてオーバーダブを行う傍ら2・14を録音し、12月からは同じロンドンのレプリカ・スタジオでシングル向けの曲「グッドナイト・トゥナイト」や15を仕上げました。レプリカ・スタジオは、お気に入りのアビイ・ロード第2スタジオが長期間使えない状況に業を煮やしたポールが、自身の版権会社(MPL)のオフィス地下にそっくり模造したスタジオです。さらにアビイ・ロード・スタジオで最終的なオーバーダブやリミックスを続け、アルバムが完成したのは1979年4月のことでした。当初の曲順では1に続く2曲目に「Cage」という曲を配置し、ロケストラによる2曲でアルバムを締めくくっていましたが土壇場で見直され、14を追加する代わりに「Cage」は収録漏れになってしまいました。また、同時期に取り上げられたデニーの「愛の嘆き」やローレンスの「メイシー」といった曲は、後に各自のソロ・アルバムで陽の目を浴びることとなります。
アルバム・タイトル『バック・トゥ・ジ・エッグ』はドライヴ中にポールの娘が口にした言葉で、原点回帰を目指すウイングスには図らずもぴったりでした。アートワークはアルバム『ヴィーナス・アンド・マース』以来の付き合いであるデザイナー・チームのヒプノシスが今回も担当。アルバム・ジャケットはジョン・ショーが撮影し、部屋の床に設けられたハッチから地球を見下ろすウイングスの5人を写したもの。よく見ると、ベスト盤『ウイングス・グレイテスト・ヒッツ』(1978年12月発売)のジャケットに登場した彫像が暖炉の上にたたずんでいます。裏ジャケットにはポールやリンダが撮った各メンバーの写真を配置。曲目やクレジットなどを印刷したインナー・スリーブの片面は、目玉焼き柄のレーベル面が見えるよう中央に穴が開いていました。また、卵にあやかってレコードのA面は「サニー・サイド・アップ(片面焼き)」、B面は「オーバー・イージー(両面焼き)」と名づけられていました。
【発売後の流れ】
アルバムに先駆け、まず「グッドナイト・トゥナイト」がシングル発売されました(1979年3月)。これはローレンスとスティーヴの加入後初の新曲であり、米国ではキャピトル・レコードからCBSコロムビアへの移籍後第1弾となるシングルでしたが、全英・全米共に5位を獲得しています。その勢いのまま、ウイングスの自信作『バック・トゥ・ジ・エッグ』は6月に発売されます。ポールとレコード会社の力の入れようは半端ないもので、6月11日にアビイ・ロード・スタジオで開かれた完成記念パーティーでは目玉焼き型ビーチ・パラソルを筆頭に大量の卵グッズが用意されました。また、アルバムを宣伝するため同月には実に8曲分のプロモ・ヴィデオを制作しています(米国では年末にTV放送された)。しかし、期待とは裏腹にチャートでは英国で6位・米国で8位と空振りしました。ここまで伸び悩んだのはデビュー・アルバム『ウイングス・ワイルド・ライフ』以来久々のことです。また、シングルカットされた2・6・7もすべて不発に終わりました。追い打ちをかけるように、評論家たちは「まずくて小さなオムレツ」「生煮えのコンセプト」などと厳しい意見をぶつけます。ローリング・ストーン誌に至っては「近頃の記憶の限りでは最も哀れなクズの寄せ集め」とまで言い放ちました。これらの酷評に対しポールは当時のインタビューで平然としていましたが、まさかの結果に心の中では動揺していたことでしょう。
ウイングスを原点に戻そうとした試みは正しかったのか─思い悩むポールは自宅スタジオにこもって1人で音楽を作るようになります(後のソロ・アルバム『マッカートニーII』はこの時の録音)。11月には一連の自宅セッションから16がシングル発売されますが、これは8年半ぶりとなるポールのソロ・シングルであり、ポールにとってウイングスの位置づけが変わり始めたことを暗示していました。一方、根っからのライヴ好きであるデニーの求めもあり、ウイングスは秋になってようやくコンサート・ツアーに出ます。デビュー当時の精神に立ち返って行き当たりばったりにコンサートを開く案もありましたが、結局は通常規模の全英ツアー(1979年11月23日〜12月17日・全19公演)に落ち着きました。再び4人組のブラス・セクションを従え、初めて人前で披露する「レット・イット・ビー」「フール・オン・ザ・ヒル」「エヴリナイト」などを含む真新しいセットリストには、『バック・トゥ・ジ・エッグ』からの新曲(2・4・5・6・7)や「グッドナイト・トゥナイト」、発売されたばかりの16に加え未発表の「カミング・アップ」までも登場しました。アルバムの不振とは打って変わって、観客の反応は熱狂的でした。そして12月29日、ワルトハイム国連事務総長(当時)とポールが提唱して開催されたチャリティ・コンサート「カンボジア難民救済コンサート」の最終公演(ロンドン、ハマースミス・オデオン)にウイングスはトリとして出演。全英ツアーとほぼ同じ曲目を演奏した後、ピート・タウンゼントやジョン・ポール・ジョーンズなどオリジナルのレコーディングに参加した顔ぶれを含む30人近いミュージシャンでロケストラを再現し、「ルシール」「レット・イット・ビー」「ロケストラのテーマ」(後者は2度演奏)を熱演しました。
しかし、'70年代を華々しく締めくくったはずの「カンボジア難民救済コンサート」がウイングス最後のライヴになってしまいました。1980年1月、ワールド・ツアーを見据えて予定された日本公演が、成田空港でポールが大麻取締法違反のかどで逮捕・強制送還されたため中止に。その後ポールはソロ活動を始め、1981年4月にデニーがグループからの脱退を宣言したことにより、ウイングスは新曲を出さないまま解散。新たなラインアップで再出発を図った『バック・トゥ・ジ・エッグ』が、皮肉にもウイングスのラスト・アルバムになりました。
【管理人の評価】
ウイングスを原点であるライヴ活動に連れ戻すために制作されたこのアルバムは、実際にセットリスト入りした6曲を始めコンサートで演奏されることを想定して書かれた曲を多く含んでいて、それゆえにウイングスの諸作品で最もロック色の強い1枚となっています。また、デビュー作である『ウイングス・ワイルド・ライフ』の手法を参考に、セッション初期は正規のスタジオでない場所でベーシック・トラックを一発録りしたため(ローレンスいわく「ガレージ・バンドのようだった」)、正確性よりもノリや勢いを重視したサウンドが復活しています。ポールの意向に新メンバーであるローレンスとスティーヴもしっかり対応していて、アルバムの全体を通してハードエッジに聞かせます。ポールのヴォーカルは7・9・11などいつになくハスキーなものが散見されます(一説では麻薬のせいとも・・・)。
ライヴ映えを意識した結果ロック色が強くなったケースは過去に『ヴィーナス・アンド・マース』の例がありますが、このアルバムがその時と異なるのは'70年代末に流行の最先端にあった音楽ジャンルからの影響が色濃く反映されている点です。例えば4・9はパンクの影響を、6はニュー・ウェイブの影響を感じさせますし、キーボードを多用した7にはこの後ブームを迎えるテクノ・ポップに通じるものがあります。シングルになった「グッドナイト・トゥナイト」もディスコ・ミュージックを取り入れたものでした。パンク全盛期に発表した前作『ロンドン・タウン』ではそうした流行にあえて迎合しませんでしたが、このアルバムではその反動か、いつもなら接点がなさそうなパンクやニュー・ウェイブに果敢に挑戦した実験的な曲が並びます。その本気度は、共同プロデューサーにクリス・トーマスを起用するという姿勢にも如実に表れています。無論、挑戦した結果「もどき」の領域を超えたとは言い難いですが、新しい音楽と常に向き合い、それを自分なりに消化して唯一無二の「マッカートニー・ミュージック」を生み出してゆくポールならではの斬新な試みを随所で楽しむことができます。
ポールは発売当時「元々はコンセプト・アルバムにするつもりだった」と語り、そのコンセプトについて「夜遅くヴァンに乗ってコンサート会場に向かうまでの過程」と説明していますが、収録曲の歌詞を見るとポールの言う通り「夜」「パーティー」「ライヴ」といったキーワードを連想させるものが多く、当初のコンセプトの痕跡を残しています。また、ラジオの音声をフィーチャーした1に続き、ラジオを聴きながらドライヴする様子を描いた2が登場したり、ずばり「放送」というタイトルの12が詩の朗読だったり、13が3のリプライズで終わると「リクエストを流しておくれ」と歌われる14が控えていたりと、アルバム全体があたかも一連のラジオ放送であるかのような構成になっているのがユニークです。
ウイングスのアルバムとしては珍しくヒットしませんでしたが、だからといって他のアルバムと比べて劣っているわけでは全然なく、逆に聴けば聴くほどなぜヒットしなかったのか不思議に思える強力な内容で攻めてきます。一番の目玉はやはり豪華ゲスト総出演のロケストラですが、それ以外にも(というよりロケストラが霞んでしまうくらい)きらびやかで刺激的な曲が目白押しです。ハードロックをポールの痛快なシャウトと共に聴きたい方には特にお勧めです。コンセプト通りに、ドライヴやパーティーでみんなで楽しく騒ぎながら聴くのもよいでしょう。ロックが苦手な方でも、後半を中心に10・11・14といったバラードの佳曲が収録されているので要注目。唯一の欠点は有名なヒット曲がないことで、ベスト盤にも1〜2曲しか収録されていませんが、だからこそ他では聴くことのできない隠れた名曲たちをこのアルバムで聴きましょう。私も大好きなアルバムで、2・5〜9・14(ボーナス・トラックだと15・16)が特に好きです。
アルバム『バック・トゥ・ジ・エッグ』発売40周年記念!収録曲+aを管理人が全曲対訳!!
1.レセプション
ワン・コード進行によるファンキーなインスト・ナンバー。ローレンス・ジュバーがギター・シンセサイザーを弾いている。「受信」を意味するタイトルの通り、実際のラジオ放送の断片が重なる。その中にはノルウェー語で「新約聖書に照らしてこれを見てみましょう」という台詞も。また、「ブロードキャスト」の演奏や、リム・キャッスルを所有するマーゴリー夫人のディアドラによるA.P.ハーバート作の詩「The Poodle And The Pug」の朗読もわずかに聞こえる(元々は2分半の長さで、これらの音源が大々的に使用されていた)。
2.ゲッティング・クローサー
ラジオのチューニングが合った所でこの曲がイントロなしに始まる。キャッチーなメロディを持つノリのいいロック・ナンバーで、ポールの熱気あふれるヴォーカルと重厚なエンディングがかっこいい。1973年には既に書き始めていた曲で、同年4月に「ピカソの遺言」を書いた際のデモ・テープでも確認できる。セッション初期のアウトテイクではなんと!デニー・レインとポールがリード・ヴォーカルを分け合うスタイルだった。そちらは公式テイクにはないデニーのヘタレ具合とコーラスの騒がしさが面白いです(苦笑)。
英国ではアルバムからの第2弾シングルとして、米国・日本では第1弾シングルとして発売されたが、英国で最高60位・米国で最高20位と苦戦した。プロモ・ヴィデオはステージでの擬似ライヴを中心とした内容で、ポールはリッケンバッカーのベースを弾いている。1979年の全英ツアーでは2曲目に演奏された。私の大好きな曲で、この曲が今も過小評価され続けていることが不思議でなりません。
3.今宵楽しく
かつての「歌に愛をこめて」「アイム・キャリング」と同じ系譜の、アコースティック・ギターによる小曲。ギター・パートはリム・キャッスルの吹き抜け階段で録音された。ボリューム・ペダルを通したベースや、リンダとデニーのコーラスが不安定で幻想的な雰囲気を出している。ある時期までは、この曲のタイトルがそのままアルバムの仮タイトルであった。
4.スピン・イット・オン
当時隆盛を極めていたパンクを強く意識した超高速ロック。スティーヴ・ホリー渾身のドラミングが導く素早い展開であっという間に終わってしまう。テープを巻き戻すような効果音がスピードに拍車をかける。英国ではシングル「オールド・サイアム・サー」の、米国・日本ではシングル「ゲッティング・クローサー」のB面でもあった。プロモ・ヴィデオは飛行機の格納庫で撮影され、歌詞に合わせて各メンバーがぐるぐる回る。ライヴでの再現が難しい曲にもかかわらず、1979年の全英ツアーでセットリスト入りした。
5.アゲイン・アンド・アゲイン・アンド・アゲイン
デニーが書いたカントリーっぽいポップで、リード・ヴォーカルもデニー。デニーの単独作がウイングスの作品に収録されるのは「やすらぎの時」(1976年)以来。デニーによればバンド全体で仕上げた曲で、未完成だった2曲(「Little Woman」と「Again And Again And Again」)をポールの提案で合体させた。枯れた味わいが魅力的なデニーのヴォーカルを、ポールが高音のコーラスで補強する。プロモ・ヴィデオは菜の花畑で演奏するウイングスをフィーチャー。ウイングスの1979年全英ツアーで取り上げられたほか、デニーのソロ・ライヴでも定番となっている。個人的には、ウイングス時代のデニーのヴォーカル曲で一番好きです。
6.オールド・サイアム・サー
ポールの全キャリアでも稀に見る非常にヘヴィーなロック・ナンバーで、喉をつぶす勢いのシャウト・ヴォーカルを堪能できる。1976年夏に即興で録音された「Superbig Heatwave」というデモから発展してできた曲で、リンダが弾くキーボードのリフが耳に残る。ギター・フレーズを誰が書いたかをめぐってデニーとスティーヴの間で口論となり、危うく殴り合いの喧嘩になる所だったという。
英国では1979年6月1日に先行シングルとして発売されたが、最高35位止まり。米国・日本ではシングル「アロー・スルー・ミー」のB面であった。プロモ・ヴィデオではリム・キャッスルでのスタジオ・ライヴを見ることができるが、険しい表情で歌うポールと、滑稽な仕草でおどけるデニー&ローレンスとのギャップが面白いです。1979年の全英ツアーで演奏された。「ゲッティング・クローサー」と並んで、このアルバムで私が最も好きな曲の1つです。
7.アロー・スルー・ミー
ムーグ・シンセとブラス・セクションを中心に据えたミドル・テンポのR&Bで、前年の「しあわせの予感」のようにギターレスである。フレクサトーン(「ちゅいーん」という音のパーカッション)の使用や、間奏での2度にわたるリズム・チェンジなど実験的要素を垣間見せる。
米国・日本ではアルバムからの第2弾シングルとなり、米国で最高29位。日本ではウイングスの来日記念盤だったが、発売日の1980年1月20日(予定されていた日本公演初日の前日)にはポールの逮捕により既に公演中止が決定されていた。プロモ・ヴィデオは幻想的な仕上がりで、ポールとリンダに加えデニーとローレンスもキーボードを弾いている。1979年の全英ツアーでもスタジオ・ヴァージョンに忠実なアレンジで演奏された。ベスト盤『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』にも収録。アナログ盤はここまでがA面。
8.ロケストラのテーマ
ロックとオーケストラの融合を目指したプロジェクト「ロケストラ」用に書き下ろされたインスト・ナンバー。メロディやアレンジは極めてシンプルで、23人が同時に録音した迫力あふれる分厚い演奏を際立たせている。ポールはピアノとアドリブ・ヴォーカルを担当。ポールの誘いで参加したミュージシャンはピート・タウンゼント、ケニー・ジョーンズ(以上ザ・フー)、デヴィッド・ギルモア(ピンク・フロイド)、ハンク・マーヴィン(ザ・シャドウズ)、ジョン・ポール・ジョーンズ、ジョン・ボーナム(以上レッド・ツェッペリン)、ゲイリー・ブルッカー(プロコル・ハルム)、ブルース・トーマス(エルビス・コステロ&ジ・アトラクションズ)、ロニー・レイン、レイ・クーパーなど。キース・ムーン(ザ・フー)も来る約束をしていたが、直前に他界してしまった。
1979年度グラミー賞にて創設された最優秀ロック・インストゥルメンタル部門の受賞第1号となった。1979年12月29日の「カンボジア難民救済コンサート」では、メンバーを若干入れ替えて復活したロケストラによって2度演奏された。この時、他はお揃いの衣装で臨んでいる中でピート・タウンゼントだけ違う服を着ている。1987年にはデュアン・エディがポールのプロデュースでカヴァーしている。ベスト盤『夢の翼〜ヒッツ・アンド・ヒストリー〜』にも収録。
9.君のために
パンクにも似たハードなロックンロール。ローレンスのギター・ソロはハーモナイザーを通してピッチを変えながら弾いている。シャウトを利かせたポールのヴォーカルが風変わりで印象的。ライヴ映えする曲調だが、なぜかセットリスト入りしなかった。直訳した邦題は歌詞の内容にそぐっていない。
10.アフター・ザ・ボール〜ミリオン・マイルズ
ゴスペルの影響を感じさせる2曲のバラードによるメドレー。「アフター・ザ・ボール」は3拍子のロッカ・バラードで、ポールはピアノを弾きながらソウルフルに熱唱する。後半の「ミリオン・マイルズ」で使用されている楽器はコンチェルティーナ(アコーディオンに似ているが鍵盤がボタン式)のみ。1974年に録音されたと言われるピアノ・デモが存在する。
11.冬のバラ〜ラヴ・アウェイク
続いても2曲のバラードによるメドレー。「冬のバラ」は物悲しいピアノ・バラードで、作中でも最もハスキーなヴォーカルを聞かせる。デニーのコーラスも雰囲気にぴったり。「ラヴ・アウェイク」は一転して春をイメージさせるアコースティック・ギター主体のラヴ・ソングで、1977年頃書かれた。スコットランドでのセッションで録音された初期テイクは5分ほどの長さで、ハーモニカもフィーチャーしていたがボツとなり、リム・キャッスルでリメイクされた。ポールが1968年に「シングミーボブ」という曲を提供したブラック・ダイク・ミルズ・バンドによるブラス・セクションが加えられている。本メドレーのプロモ・ヴィデオはリム・キャッスルで撮影され、雪の中を馬と散歩するポールとリンダや、室内で演奏するウイングスを映している。
12.ブロードキャスト
ポールが作ったインストをバックに、リム・キャッスルの所有者ハロルド・マーゴリーが詩を朗読する。詩は城の書庫にあった本からランダムに選ばれ、ここではイアン・ヘイ作「The Sport Of Kings」とジョン・ゴールズワージー作「The Little Man」が登場する。なお、ポールがザ・ファイアーマン名義で発表したハウス・ミュージックのアルバム『ストロベリーズ・オーシャンズ・シップス・フォレスト』(1993年)では、この曲(と「レセプション」)の朗読が無残な形でサンプリングされている。
13.ソー・グラッド
再びロケストラによる演奏。今度はヴォーカル入りで、ポールは痛快なシャウトと共にベースを弾いている。派手なブラス・セクションは、1975年以来ウイングスのコンサート・ツアーに同行してきた4人組(トニー・ドーシー、ハウイー・ケイシー、タデアス・リチャード、スティーヴ・ハワード)。エンディングはレプリカ・スタジオでウイングスのみで録音したパートが連結され、ポール、デニー、リンダの3人による輪唱で「今宵楽しく」の一節が歌われる。当初はこの曲がアルバムのラスト・ナンバーだった。
14.ベイビーズ・リクエスト
ポールがお得意とするジャズ・スタイルのバラード。元々は南フランスで出会ったミルス・ブラザーズ('30年代から活躍した米国のヴォーカル・グループ)のために書かれたが、録音料を要求されたため提供を断念し、ウイングスによるデモ・ヴァージョンを急遽アルバムに収録することに決めた。かつてナショナル・ユース・ジャズ・オーケストラと共演していたローレンスのギター・プレイが光る。後付けではあるが、ラジオに思い出の曲をリクエストするという詞作はアルバムのコンセプトに見事マッチしている。
英国ではシングル「ゲッティング・クローサー」のB面でもあった。プロモ・ヴィデオでウイングスは英国軍の慰問団に扮し、将校役のポールはノーカットの長回しで歩きながら歌う。ベスト盤『ピュア・マッカートニー〜オール・タイム・ベスト』(デラックス・エディションのみ)にも収録。ポールは2012年のカヴァー・アルバム『キス・オン・ザ・ボトム』でこの曲を再演している(デラックス・エディションのみに収録)。
〜ボーナス・トラック〜
15.デイタイム・ナイトタイム・サファリング
1979年3月23日に発売されたシングル「グッドナイト・トゥナイト」のB面だった曲。シングルB面に収録する曲を決める際、ポールは他のメンバーに「いい曲ができたら収録してあげよう」と呼びかけ、リンダを含む各自が週末に曲作りに挑戦・難航していた所、月曜日になってポールが持ってきたのがこの曲だという。B面にしておくにはもったいないほど売れ線のポップ・ソングで、ミキシングは慎重を期して実に49回もやり直している。2'04"辺りで、当時1歳半の長男ジェイムズの泣き声が聞こえる。ポールいわく歌詞は女性讃歌とのこと。ファンの間で人気が高いのみならず、ポール自身もたびたびお気に入りに挙げており、ベスト盤『夢の翼〜ヒッツ・アンド・ヒストリー〜』にも収録している。
16.ワンダフル・クリスマスタイム
ポールにとってはビートルズ解散後初となるクリスマス・ソング。1979年11月16日にポールのソロ名義でシングル発売され、英国で最高6位を記録したが米国・ビルボード誌ではなぜかチャート・インしなかった(キャッシュボックス誌では最高83位)。ポールがソロで新曲を発表するのは1971年のソロ・デビューシングル「アナザー・デイ」以来であった。『バック・トゥ・ジ・エッグ』発売後の1979年夏にスコットランドの自宅で録音され、すべての楽器をポールが1人で演奏。同じセッションからは翌年のソロ・アルバム『マッカートニーII』が生まれている。シンセサイザーを多用したポップな音作りで、クリスマスにふさわしく陽気に仕上げているのはいかにもポールらしい。
ウイングスはレコーディングに一切関与していないが、プロモ・ヴィデオにはウイングスのメンバーが勢揃いし、家庭的で楽しいクリスマス・パーティーの模様を見せている。また、ウイングスの1979年全英ツアーでも最新ヒットとして取り上げられた(「カンボジア難民救済コンサート」を除く)。ソロになってからは2009年の「グッド・イヴニング・ヨーロッパ」ツアーでセットリスト入りし(一部公演のみ)、その後も主に12月に演奏されることがある。2011年に「ポール・マッカートニー・アーカイブ・コレクション」シリーズで『マッカートニーII』が再発売された際には、そちらのボーナス・トラックに収録されている。個人的にはジョン・レノンの「ハッピー・クリスマス(戦争は終った)」よりも好きです。
17.赤鼻のトナカイ
シングル「ワンダフル・クリスマスタイム」のB面だった曲。ジョニー・マークス作曲のおなじみのクリスマス・ソングを、ポールが大好きなレゲエ・アレンジにしたインスト・ナンバー(タイトルも「Reindeer」を「Reggae」にもじっている)。レコーディングは1975年に済ませていて、バイオリン以外の楽器をポールが担当。ポールの自宅にバイオリンを届けた配達員が成り行き任せに演奏させられている。エンディングがあまりにもコミカルですね。なお、リンゴ・スターもアルバム『アイ・ウォナ・ビー・サンタクロース』(1999年)でこの曲をカヴァーしている。