Jooju Boobu 第63回

(2005.10.13更新)

Walking In The Park With Eloise(1974年)

 今回の「Jooju Boobu」は、このコラムで事実上初となるインスト・ナンバーを紹介します(以前ご紹介した『Rockesra Theme』は厳密には一部掛け声も入っており、インストなのか歌なのか微妙なので・・・)。純然たるインスト・ナンバーとしては初となります。また、このコラムではポールが作曲に関わっていない曲、いわゆるカヴァー曲は基本的に「番外編」の中で取り扱う方針ですが、今回は「特例措置」により、本編では初めてポール以外の人が書いた曲を紹介します。多分、このような「特例措置」は今回のみかもしれません・・・。なぜ番外編に入れず、こんな措置を講じたかと言いますと・・・、それはポールの肉親が書いた曲だからです。つまり「マッカートニー・ファミリー」の作品だから、というわけです(笑)。そして、その作曲者と言いますと、ポールの正真正銘の親父さん、ジム・マッカートニーです。と来れば、もう皆さん(特にマニアの皆さん)ならお分かりかと思いますが、今回ご紹介する曲はずばり!『Walking In The Park With Eloise』です。まぁ、前回の『You Gave Me The Answer』をお読みの方ならすぐ分かったはずです(ちょっと触れましたね)。親父さんの書いたこの曲を、ポールは1974年にカヴァーし発表したのです。今回は、まずはジムの生涯を振り返りつつ、父親が作ったこの曲を息子が録音するまでの経緯などを中心に、この曲の魅力を語ってゆきたいと思います。なお、このページでは、曲タイトルが長いことを理由に(苦笑)以下曲名を発売当時の邦題(?)『エロイズ』と記載します。ご了承ください。

 今回は、まずこの曲の作曲者であり、ポールの実の父親であるジム・マッカートニーについて解説します。ポール・マッカートニーといえば、誰がどう見ても20世紀で最も偉大なメロディ・メイカーであることは火を見るより明らかですが(笑)、そんな稀代のロック・アーティスト・ポールの親父さんがジムです。ジムは1902年7月7日生まれ。ジムの父ジョーが生んだ7人兄弟の3人目としてマッカートニー家に誕生しました。当時からマッカートニー家はリヴァプールにあり、以後ジムはリヴァプールで生活することとなります。青年時代に始めた綿貿易の仕事がうまくいき、後に独立してその道で成功を得ました。ポールが生まれた当時のマッカートニー家が比較的裕福だったのも、ジムの努力の賜物でした。1941年には、妻メアリーと結婚。そして、そんな幸せな結婚生活の中、ジムが40歳の時メアリーとの間に翌1942年生まれたのが、ポールでした。また、1944年には後にミュージシャンとしても大成するマイク・マクギアが生まれています。ポールとマイクを授かって以来は、その類稀な才能を持つ2人の息子の成長を暖かく見守ってきました。ことに、メアリーが1956年に亡くなってからは、父親一人で息子を育てていったのです(ポールにはおばに当たるジンも手助けしてはいましたが)。そして、特にビートルズの一員として一躍世界中でヒットする存在となる長男ポールを、故郷リヴァプールで応援してゆきました。その初期においてはポールの曲作りにも口を挟むことがあり、有名なエピソードとして、かのヒット曲『She Loves You』の印象的なフレーズ“Yeah Yeah Yeah”を“Yes Yes Yes”にしなさいとポールに諭した・・・なんて話も残っています。ポールとは違い前時代的な考えの人でしたが、ポールにとってはありがたい父親でした。ポールも、ことあるごとに父親を思い出していたようで、こちらは『Eleanor Rigby』に登場する“マッケンジー神父(Father McKenzie)”は元々“マッカートニー父さん(Father McCartney)”だった、というエピソードが残っています。晩年は静かな余生を過ごしたジムですが、ポールがウイングスと共に出演したTV番組「ジェームズ・ポール・マッカートニー」(1973年)ではリヴァプールのパブのシーンで登場し、ポールたちと歓談する様子が見られるなど、息子との親子愛は健在でした。

 そんなジムですが、仕事に専念する傍らで、音楽にも深い関心を抱いていました。中でもジャズには興味があり、少年時代にトランペットとピアノを独学で習って以来は自分で演奏もこなしていました。また、前回の『You Gave Me The Answer』の項でもお話しましたが、自らセミプロ・バンドを率いてパブで演奏を披露していたそうです。そんなジムの影響でジャズ・レコードのコレクションが家に常備され、家庭が音楽であふれていたのは前回語った通り。そして、ジムの音楽嗜好は息子ポールにも影響を与えたことは言うまでもなく、後にポールがジャズやクラシックをはじめ様々なジャンルの音楽に手を染めていったのもジムの影響・・・というのも前回語りましたね。少年時代のポールにトランペットやギターを買い与えたのもジムでした(あ、これも前回触れましたね)。ちなみに、ジムの父親にしてポールの祖父であるジョーもコントラバスを演奏する音楽好きで、ポールの息子であるジェームズもギタリスト。マッカートニー家は恐ろしいほどに音楽一家だったわけです。

 さて、ジムは演奏するだけではなく、実はわずかながら作曲もしていました。世界一のコンポーザーであるポールの親父さんですから、なんら不思議なことではありませんが・・・。それは、ジムの音楽嗜好がそのまま表れたかのようなデキシーランド・スタイルのジャズでした。そう、その曲こそ今回ご紹介する『エロイズ』です。この曲が書かれたのは、'50年代初頭だと言われています(それ以前だったとの説もあり)。ちなみに当時のタイトルは邦題と同じく単に『Eloise』だったそうで、ポールがカヴァーした際に『Walking In The Park With〜』が付け加えられたそうです。作曲時期はともかく、ジムはバンドと共にこの曲をパブなどで実際に演奏していたようです。しかし、この当時この曲がレコードになることはありませんでした。セミプロレベルのバンドでしたから、1枚くらい記念に録音してもよかったのですが・・・。このことについてポールはこう語っています。「親父はレコードを出したかったんだと思う。だけどひどく恥ずかしがりやだし、宣伝めいたことがきらいなんだ。だから迷惑をかけたくないってレコーディングを辞退したんだ」いかにもジムらしい意思だったと思いますが、しかしジムは夢にも思わなかったことでしょう。曲を書いてから20数年経って、まさかその曲がレコードになる瞬間に出会おうとは・・・。しかも1枚だけじゃない、世界中で売られるレコードになろうとは・・・。そして、それを成し遂げたのが、当時10歳にも満たなかったわが息子によってとは・・・!

ポールの親父さん、ジム・マッカートニー(TV番組「ジェームズ・ポール・マッカートニー」より)。

 さぁ、いよいよ息子ポールの出番です。この曲が録音される1974年に話を飛ばしましょう。ジムが手塩にかけて育てたポールは、この時既に一人前どころか世界一のミュージシャンに成長し、ビートルズの解散を経験、次なるバンド、ウイングスを率いていました。ポールにとっては第2のステップを歩んでいる頃でした。この当時のウイングスは、メンバー2人に逃げられて(汗)3人編成という危機的状況の中、名盤「バンド・オン・ザ・ラン」を生み出し確固たる名声を確立したばかり。いつもならアルバム発売に合わせてコンサート・ツアーに出る所でしたが、いかんせん3人ではライヴはできない・・・ということで、ポールはメンバー増強を図ります。その結果、4月にジミー・マッカロク(ギター)が、5月にジェフ・ブリトン(ドラムス)が新メンバーとして加入。ウイングスは新たなラインアップで再び世界に向けて羽ばたき始めたのでした。そして、その初仕事の地としてポールが選んだのが米国はナッシュビルでした。カントリーの本場としてあまりにも有名な同地を選んだのは、'70年代初頭からポールなりに手を染めてきたカントリーをきっちり消化したいという思惑もあったのかもしれません。事実このナッシュビル・セッションでは、本格派カントリー『Sally G』『Send Me The Heart』(後者はデニー・レインとの共作)が生まれたり、未発表曲『Hey Diddle』にフィドルとスチール・ペダルをオーバーダブしたりと、ポールはカントリー三昧に興じていました。新生ウイングスのスマッシュ・シングルとなる『Junior's Farm』も生まれたこのセッションは約1ヶ月に渡りウイングスの結束に一定の成果を収めましたが、その中でついに『エロイズ』が取り上げられたのです。なぜこの時期に突如ポールが父親の昔書いた曲を録音したかについてポールのコメントはありませんが、ポールが現地の大御所であるチェット・アトキンスとそれぞれの父親について話していた時に「実は親父がこんな曲を書いていて・・・それなら録音しようか?」という流れでセッションが実現したというのが有力のようです。そして、もちろんこの時既に72歳になっていた年老いた父親へポールなりに親孝行がしたかった・・・というのが力になったのは確かでしょう。

 こうして晴れて録音されることとなった『エロイズ』。演奏するはもちろんウイングスです。しかし、ポールは「折角ナッシュビルに来たんだし・・・」と思ったのでしょう。元々はジャズ・ナンバーであるこの曲をカントリー風アプローチでアレンジしたかったようで、ウイングスのメンバー5人に加え更なる助っ人を2人セッションに招いています。そしてそれがなんともビッグ・ネームです!なんと、現地ナッシュビルのカントリー・ミュージックの大御所、チェット・アトキンス(ギター)とフロイド・クレイマー(ピアノ)なのです!共に'40年代〜'50年代から活躍しているまさにその道のベテラン。ナッシュビル・サウンドと言ったらこの人!といった2人が、ポールの急な誘いに応じてくれたのです。しかもこの曲のためだけに!いくらカントリー三昧が頭をもたげたからといって、こんな豪華セッションを実現してしまうポールの実行力には恐れ入ります(笑)。まして相手は現地の大御所ですから。普通そんな簡単に首を縦に振ってくれないだろうに・・・。と同時に、ポールの親孝行のために召集されたアトキンスとクレイマーの寛大さにも恐れ入ります。いくら天下のポールとはいえ、たった1曲、それもポールのわがまま(苦笑)のためにわざわざ演奏しに来たんですから・・・。大先輩2人の参加で、ウイングスにとっては(というより恩恵を受けたのはポールだけ?)、カントリーを学ぶいい機会になったことでしょう。アトキンスとクレイマーをフィーチャーしたことにより、ポールがカヴァーした『エロイズ』は本来のジャズ・テイストに加えカントリーの雰囲気も漂う仕上がりとなっています。

 インスト・ナンバーであるこの曲ですが、曲自体は典型的なジャズ・スタイルのメロディをしています(私はジャズに耳が肥えているわけでないので何とも言えませんが・・・)。それほど目立った特徴は見られません。まぁ、この点は息子ポールとは違い親父さんの曲ですから、そんなに個性がなくても仕方ないでしょうか・・・(苦笑)。いろいろあるジャズのスタイルでもビッグバンド形式で、非常に陽気です。その点、『Bridge Over The River Suite(河に架ける橋組曲)』に比べればジャズが苦手な人でも聴きやすく仕上がっていると思います。タイトル通りに、晴れた昼下がりに公園を散歩している気分にしてくれる感じです。アップテンポでもあり、聴いているだけで素直に楽しくなります。構成はシンプルで、単純にメロを4回繰り返すだけです。まぁこの辺も親父さんの作ですから・・・(苦笑)。でも見ようによってはシンプルな繰り返しでキャッチーさを引き出すポールにつながるものがあり、興味深いです。

 そして、そんなシンプルな繰り返しを刻一刻変化するアレンジで絶妙に聴かせ退屈させるどころか感動させてしまうのもポールの得意技ですが、この曲でもそんなポールのアレンジが生きています。ジムが演奏していた頃のアレンジは不明ですが、もしポールのヴァージョンと同じとしたら、これも遺伝ですかね?先述の通り4度の繰り返しで成り立つ構成ですが、その4度全部が違うアレンジになっていて、飽きさせません。それぞれで各楽器をフィーチャーしたソロ・パートがあり、1曲で4粒おいしい演奏となっています。まず、最初は華やかなブラス・セクションとドラムロールで始まります。ブラス・セクションは誰が演奏しているかは不明ですが、多分これも現地のミュージシャンでしょう(もしかしたらこれも大御所だったりして・・・)。そして、うきうきしたリズムにのせて1度目はブラス・セクションを派手にフィーチャーした明るい演奏です。ビッグバンドのイメージそのものですね。きっとその昔はジムもこの曲のようにトランペットを吹いていたのでしょう。続く2度目はエレキ・ギターがメインです。ここでの主役はチェット・アトキンスです。フレーズはジャズというよりカントリーの要素が詰まっており、ポールのカントリー狂(笑)アレンジが実現する結果となりました。さすがベテランだけあり、貫禄のついた本場にふさわしいものです。もちろん、デニーとジミーもギターで参加していますが、ここはアトキンスに主役の座を譲っています。

 3度目は一転してピアノがメイン。これは言わずもがもう1人の大物、フロイド・クレイマーが弾いています。こちらもテクニカルなフレーズでジャズの趣がよく出ています。その技、ポールより上手いと言っても過言ではないでしょう!高音中心のきれいな音ですね。これまでと違い、ちょっとクールダウンした格好で、アレンジに変化をつけています。そして、クールダウンした後はヒートアップ。4度目は再びブラス・セクションをメインにフィーチャーしています。今度は序盤以上に陽気に繰り広げます。フィナーレとしてはうってつけな賑やかさ。大物ゲストの名演を味わった後は、最高に盛り上がる・・・という計算ですね。ますます楽しい雰囲気にさせてくれる、ハイライトと言えましょう。でも、最後の最後はちょっと静かに終わっているのがなんだか意外な所でもあります。これもポールらしいのか・・・(苦笑)。ジャズやカントリー色の強い演奏を背骨として支えているドラムスは新人メンバーのジェフ。単純な曲ゆえ単調ではありますがしっかりリズムをキープしています。ロック畑なのに力強くなりすぎずちゃんと雰囲気にマッチしているのがいい感じです。この後も成長が期待できそうな演奏ですが、残念なことにジェフはこの後しばらくしてウイングスをやめてしまいます・・・。そして肝心の親孝行をしているポールはここではベースを弾いています。そしてさらに!洗濯板も「演奏」しています!これは「えっ?」と思われる方もいるかもしれませんが、カントリーやスキッフルではよく使われるれっきとした楽器であり、パーカッションのギロや「そろばん」のような音を出します。ちゃっかり自分で演奏しちゃって、すっかりカントリー・ミュージシャンになりきっていたポールでした(笑)。エンディングでよく聴こえますが、注意深く聴くとそれ以外にも結構たくさん入っています。

 さて、このようにウイングスはもちろん大物ゲストまで巻き込んで出来上がった親孝行の『エロイズ』を、ポールは程なくして発表することになります。しかし、ウイングスとしては発表しませんでした。では、ソロ名義か・・・?と言えばそうでもなく、ウイングスを変名にして発表したのです。その名は「ザ・カントリー・ハムズ(The Country Hams)」。レコーディングの地・ナッシュビルにあやかってカントリー版ウイングスといった所でしょうか。実はポールは変名で曲を発表するのが好きで、たとえばアルバム「ラム」のインスト・アレンジ版を「パーシー・スリルズ・スリリントン」名義で発表したり、前衛音楽を「ファイアーマン」名義で発表したりと、様々な別名を持っているのです。『エロイズ』は、このカントリー・ハムズのデビュー・シングルとして1974年10月に英国で、12月に米国で発売されました(B面はポールとリンダの共作によるジャズ・インスト『Bridge Over The River Suite』)。日本でも同内容で発売されています。新生ウイングスの演奏が世に出るのは実はこれが最初(シングル「Junior's Farm」はその1週間後)。しかし、シングルはヒットどころかチャート・インすらしませんでした。それもそのはず、カントリー・ハムズ名義の上に、A・B面両方がジャズ・インスト(しかも1曲はポールの作曲ではない)。かろうじて盤面に「Produced by Paul McCartney」と書いてあるのみで、ポールの名もウイングスの名もジャケットには一切記載されていません。これではウイングスの演奏だとは誰も分からないはずですから、ヒットにつながるわけがありません。ジャケットも公園を散歩するカップルを描いた、ウイングスとは無関係のイラストが使用されていました。発表当初これがウイングスの演奏だと見破った人の方が逆にすごいです(本当にいるのかどうか・・・いたら理由を聞きたいですね!)。結局、カントリー・ハムズがウイングスであると悟った人は少なく、その正体は長い間謎に包まれた・・・どころか存在自体忘れ去られてしまった・・・というより、ポール・ファンに認識すらされなかったのでした(汗)。

 こうして親父さんに最高の親孝行を果たしたポール。しかし、悲しい出来事はその2年後に起こります。そう、ポールをずっと見守り続けてきたジムが残念なことに亡くなってしまったのです。1976年3月18日、享年73歳。死因は肺炎でした。メアリーの死後再婚した妻に看取られながら、「もうすぐメアリーの元へ行くよ(I'll be with Mary soon.)」と言葉を残しこの世を去りました。この日は折しもウイングスのヨーロッパ・ツアーの開始直前。ポールは急いで帰国しましたが、あまりにものショックに取り乱してしまい葬儀には参加できなかったそうです・・・。ツアーは予定通りジムの死の2日後に開始されました。思えば『エロイズ』はジムの亡くなる2年前の録音。ポールは、あの時録音していなかったらこんな形での親孝行は果たせなかったかもしれません。まさにいいタイミングだった、ぎりぎり間に合った親孝行でした。きっとジムも息子からのレコードのプレゼントに喜びながら逝かれたのでしょうね。

 一方、『エロイズ』は1982年に突如シングルでリバイバル発売されました。これは、ラジオ番組に出演したポールが自分に欠かせない音楽(いわゆる、「無人島に持ってゆきたい音楽」)の1つに挙げたのが発端でした。ポールが無名のアーティストの無名のシングルをリストアップしたことから、恐らくこの頃から「カントリー・ハムズは、実はポールないしはウイングスなのでは?」という説が浮上したものと思われます。そして、ポールのアルバムがCD化された際、この曲がB面の『Bridge Over The River Suite』共々ボーナス・トラックとして追加され、ここに初めてカントリー・ハムズの正体が公式発表されたのです。ちなみに、収録されたアルバムはなぜか1976年の「スピード・オブ・サウンド」。時代的には「ヴィーナス・アンド・マース」(1975年)の方が合っている気がするのですが・・・(汗)。現在ではアルバム「スピード・オブ・サウンド」で容易に聴くことができ、当初変名で発表されたことも忘れてしまいそうです。

 最後に、マニアックな補足をちょっとだけ。この曲にはアウトテイクがありません。ナッシュビル・セッションのアウトテイクは結構多く発見されているのですが・・・。ちなみに、シングルB面のあれだけ地味な(苦笑)『Bridge Over The River Suite』にはアウトテイクがあります。詳細はその曲が紹介された時にでも・・・。また、ライヴでも演奏されていません。まぁ演奏されている方が驚きですが・・・。

 この曲は、ポールが公式発表したインスト・ナンバーの中でも比較的聴きやすいかと思います。作曲はお父さんですけど(笑)。非常に陽気で明るく、誰でも楽しめると思います。先入観的な「ジャズ」のイメージとは違う、開放的な感じがあってお勧めです。少なくとも『Bridge Over The River Suite』よりは楽しめます(苦笑)。演奏も、ナッシュビル・サウンドの重鎮が参加しているので折り紙つき!ヴォーカルがない分、ぜひその名演を堪能してみてください。『You Gave Me The Answer』そして『エロイズ』と、2回連続でポールのジャズ・ナンバーを取り上げましたが、その魅力がお分かり頂けたでしょうか?その根源にはジムのジャズ好き・音楽好きがあったというわけですね。ポールにとっては音楽嗜好性に強い影響を与えた最初の人物として、とっても重要で尊敬できる親父さんだったわけです。そんな親子の絆が確かめられる、親子愛にあふれた名カヴァーでした。ポールも、父の死の直前にレコードが間に合って本当によかったですね。

 さて、今回で「Jooju Boobu」での私のお気に入りの第5層が終わります。次回以降は第6層。されど私が気に入っている曲が12曲集まりました。実は、予告しておきますが第6層はだいぶマニアックです(笑)。インストや変てこな曲がなんと4曲(+1曲?)もあります!ポール・マニアがうなるアルバムナンバーばかりです。シングル曲は3曲ありますが、うち1曲がポールの「一世一代の大ヒット」ナンバーなのがかえって浮いているほどです(苦笑)。ベスト盤収録曲はその大ヒット曲とアルバムナンバーの1曲のみ!ポール・マニアの皆さん、何が来るか待ち構えていてください!乞うご期待を!

 そして気になるその第6層の冒頭を飾る次回紹介の曲のヒントは・・・「TV用に」。序盤からマニアック路線爆発、お楽しみに!

 (2009.7.21 加筆修正)

  

当時のシングル。「カントリー・ハムズ」名義だったので誰もウイングスと分からなかった。/アルバム「スピード・オブ・サウンド」。現在はここで聴けます。

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