Jooju Boobu 第21回

(2005.5.19更新)

Mull Of Kintyre(1977年)

 最近はずいぶんマニアック路線まっしぐらの「Jooju Boobu」ですが(苦笑)、今回は違います。そう、ポール史上最大の大ヒット曲にして名曲の登場です!!これだけでピンときた方はすごいですが(笑)。今回は、後期ウイングスの名曲として知られる『Mull Of Kintyre』を語ります。1977年にシングルのみで発売され、記録的大ヒットとなった、ポール・ファンなら誰でもご存知の曲です(さすがに世間一般的に誰でもご存知か、と言えば苦しい面がありますが・・・)。ちなみに邦題は「夢の旅人」。意訳どころか原題とは全く違う内容の邦題で、例によって曲のイメージだけでつけた(by 東芝EMI)ものですが、意外なほどマッチしているのが不思議な所でしょうか(それとも大ヒットのせいで違和感が麻痺したのか?)。

 それはさておき、ウイングスにとってはもちろん、ポールにとっても非常に重要な1曲である『Mull Of Kintyre』。この曲は、一聴すれば明らかなように、伝統的なスコットランド民謡をベースに置いた伝統音楽(トラッド)風のワルツナンバーです。原題「Mull Of Kintyre」も、スコットランドに実際に存在する岬「キンタイヤ岬」のことで、歌詞もその岬を題材にしています。なぜ、突如ポールは一地方の民俗音楽をベースに、一地方の景色を歌ったスコティッシュワルツをシングル発売したのでしょうか?そして大ヒットにつながった、この曲の魅力とはどんな所にあるのでしょうか・・・?その背景には、ポールが母国・英国への深い愛情があります。また、この曲はポールのみならず、ウイングスの右腕、デニー・レインにとっても同じくらい重要な曲であります。今回は、そんな点を中心に名曲『Mull Of Kintyre』を語ってゆきます。

 まず、この曲ができるまでの経緯を振り返ってみます。そもそも、ポールがこの曲を書き始めたのは、公式発表から3年遡った1974年頃のようです。そしてそれを裏付けるかのように、当時ポールが自宅で録音したピアノ・デモに、しっかりこの曲のデモが残されています(いきなりマニアックな話ですが)。まだ公式発表されたものとはかけ離れた印象ですが、この時点でメロディと(一部ながら)歌詞が既に出来上がっていて、ちゃんとキンタイヤ岬のことが歌われているのに驚きです。まだウイングスが再び5人編成になった「ヴィーナス・アンド・マース」セッションの頃に、この曲が既に存在していたということ自体既に驚きなのですが・・・。当時のデモはブート「The Piano Tape」で聴くことができますが、既にこのコラムで述べた『Getting Closer』や『Rockestra Theme』のデモ・ヴァージョンも入っているのでなかなか興味深い内容です。

 1974年の時点でポールがリリースを考えていたかは不明ですが、本格的にこの曲を仕上げようと思い立ったのは1976年だそうです。ポールは、「今聴けるスコットランド音楽は古いものばかり」ということに気づき、「それなら自分で新たなスコットランド音楽を作ってしまおう」と考えたのです。なぜ唐突にそんな考えに至ったのかは、追い追いこのコラムでフォローされると思いますが(汗)、それよりも「ないなら自分で作ってしまえ」というポールの短絡的な思いつきには驚かされます(苦笑)。ここが凡人と天才の違いでしょうが、「新たなクリスマスソングのスタンダードを!」と意気込んで作った『Wonderful Christmastime』同様、実際に後世まで聴き継がれるであろう新たなスタンダードになってしまったのですから・・・!ポールの実行力、恐るべし。

 さて、当時ポールが活動の基盤としていたウイングスは、有名な全米ツアーを含む一連のワールド・ツアーを大成功のうちに終了させ、ちょうど次のアルバムの制作にかかろうとしていた頃でした。そして1977年2月、アビー・ロード・スタジオを皮切りに、(結果的に)紆余曲折となるアルバム「ロンドン・タウン」のレコーディングセッションが始まったのです。5月には、デニーの無計画な提案によりカリブ海はヴァージン諸島に浮かぶヨットで、有名な洋上セッションを行います。このセッションはいかにも開放的に思われましたが、実際はポールの期待通りにはいきませんでした。ポールが溺れたりサメに襲われそうになった話は別として(苦笑)、昼夜ヨットで共同生活を行っていたメンバーの間で少なからず揉め事があったのは想像に難くありません。皮肉にも、デニーが気ままなヴァケーション気分で仕立てた洋上セッションが、ウイングスの人間関係そして今後の活動に暗い影を落とす結果となりました・・・。事実、ウイングスはカリブ海から英国に帰ると、しばらくは目立った活動を行いませんでした。

 そしてウイングスが次に再び集結したのが、他でもないこの曲『Mull Of Kintyre』のレコーディング・セッション(1977年8月)でした。デニーのヴァージン諸島セッション計画にも驚かされますが、今度はポールの提案により、この時のセッションは実際に曲の舞台・キンタイヤ岬で録音されています。以前は「アフリカで録音する!」と言ってバンドの危機を招いた人でもあるから今さら驚く話でもないのですが(苦笑)、この1曲のためにアビー・ロード・スタジオからわざわざ機材を持参しているというのですから改めてポールはすごい発想力と実行力の持ち主だと感心してしまいます。

 ところが、このセッションにはウイングスのメンバーは4人しか現れませんでした。ギタリストのジミー・マッカロクが参加しなかったのです。彼は、直後にウイングスからの脱退を表明します。脱退理由を「もっとパワフルな演奏をしたい」と述べたジミーにはこのセッションは耐えがたい苦痛だったかもしれませんね(ドラッグ中毒で泣く泣く解雇という説もありますが・・・洋上セッション中に揉めたのかもしれません)。さらに、かろうじてこのセッションには顔を出したものの、ドラマーのジョー・イングリッシュもこれを最後にウイングスを脱退し、ウイングスは再び3人となってしまいました。あまり語られることはありませんが、この曲はまさに黄金期を作り上げた最強ラインアップのウイングスが崩壊する瞬間に録音されたのでした。そして、1977年11月のシングル発売に至るわけですが、この辺は後述します。

  

 さて、「新たなスコットランド民謡」を目指してポールが書いた『Mull Of Kintyre』。ポールがこの曲を書いた理由が突拍子ない思いつきというのは先に書きましたが、あながち単なる思いつきで切り捨てることができないものがあります。偶然、この時期(1977年)に録音されて発表に至ったわけでは、どうもないのです。実はこの時期のポールは、普段以上に祖国である英国、そして隣国アイルランドを意識した作風が目立っているのです。もうお分かりの通り、この曲と同時進行で制作されたアルバムのタイトルはずばり「ロンドン・タウン」。同名のタイトル曲も存在します。さらにそのアルバムを聴くと、明らかにスコットランドやアイルランドのトラッドに影響されたメロディ・アレンジの曲が至る所に散りばめられています。『Don't Let It Bring You Down』『Deliver Your Children』『Famous Groupies』などなど・・・。むろん、ポールの祖国への思い、自らのルーツであるアイルランドへの思いは、いつの時代も変わらぬ深さを持っていますが、この時期はことさら自らの音楽活動に1つのカラーを与えているまでにその影響が色濃く反映されています。この曲は、既に1974年に存在していた曲ではありますが、この時期に取り上げられ、この時期に発表されています。ポールをここまで英国回帰に向かわせた要因は、何だったのでしょうか?

 ひとつは、ウイングスの活動が世界を制覇するまでに展開し、全米ツアーで頂点を迎えたことが挙げられます。元々ウイングスは英国の大学を放浪してはゲリラライヴを開く、英国を基盤に活動を始めたグループでした。それが、ヨーロッパ・ツアーで徐々にその活動範囲を伸ばし、1975年からのワールド・ツアーではヨーロッパはもちろんオーストラリアや米国にまで足を伸ばして、各地で成功を収めてゆきます。相次ぐヒット曲の登場と大人気に後押しされて、ウイングスは世界中にその翼を広げました。そして、ポール念願の全米ツアーの大成功が大きな区切りとなります。世界中を席巻した後、ポールが向かった先はスタート地点である英国でした。飛び回った翼を休めるかのように、ポールは原点に立ち返って英国やアイルランドを今一度顧みたのです。自らの音楽活動において、何度かこうした原点回帰の様相を見せるポールですが、この時は自らが生まれ育った英国やアイルランドの香りに自らの原点を見出そうとしました。まさに、この曲の歌詞ではないですが、世界中を巡った後は「キンタイア岬へと私を運んでゆく」のです。その意味で、この曲は『London Town』と共に当時のポールの音楽活動におけるテーマ曲ともいえるでしょう。

 そしてもうひとつは、デニー・レインの存在です。さっき、洋上セッションを突如提案した張本人として紹介した、その人です。ウイングス時代のポールにとってよき相棒だったデニーが、ポールの英国回帰現象に大きく寄与しました。ウイングス結成以来のオリジナル・メンバーとして、ジミーやジョーが脱退してもグループにとどまり、この時期には重要な存在としてポールも一目を置いていたデニー。そんな彼の音楽的嗜好に挙げられるのが、実は英国やアイルランドなどヨーロッパ各国の民謡つまりトラッドなのです。そして、トラッド好きのデニーが、ポールと本格的な共作活動を開始したのが、実は1976年〜1977年にかけての時期、まさに『Mull Of Kintyre』や「ロンドン・タウン」の時期だったのです。ちょうどポールが原点回帰のため英国を見つめ直していた頃にバッティングしたわけです。デニーとの共作は、ポールの英国回顧にとって大きなインスピレーションを与えることになりました。この時期デニーとポールが書いた共作曲は『London Town』『Deliver Your Children』『Children Children』などが挙げられますが、先に触れたようにいずれもが英国・アイルランド民謡の香りが漂う準トラッド・ナンバーです。そして、そのテイストがアルバム「ロンドン・タウン」の作風を決めてゆきます。

 実は、この『Mull Of Kintyre』も、そんなポールとデニーの共作曲となっています。クレジットを見ると、ちゃんと「McCartney-Laine」となっているはずです。ところが、よく思い返してみてください。この曲は、既に1974年にピアノ・デモが録音されており、そこでメロディと一部の歌詞が既に完成しています。プライベートなデモにデニーが関わっているとは思えなく、となるとデニーが作曲したということはまず考えられません。どうやら、デニーの貢献は詞作面あるいはアレンジ面で行われた可能性が高いのです。[実は、デニーの経済難にポールが見かねて、印税をデニーに分けるべくこの曲の共作者に追加したという説もあるそうですが・・・ここだけの話。]いずれにせよ、この曲がここまで魅力的なスコティッシュワルツになったのも、この時期のポールが英国回帰にどっぷり浸ることができたのも、デニーの貢献あってこそなのは疑いないですし、ポールもデニーの貢献を大きく認めているようです。そうした意味で、この曲での「McCartney-Laine」クレジットは非常に納得がいきます!(現実的な問題は別として・・・)

  

1977年頃のポールにとってはかけがえのない相棒となっていたデニー・レインと。

 続いて、この曲を語る上で非常に重要な「キンタイヤ岬」の話。この曲のタイトル、「Mull Of Kintyre」は、ずばりキンタイヤ岬の意味(「mull」=「岬」)。スコットランド南西部のアーガイル・アンド・ビュート州にあるキンタイヤ半島の南端に位置する岬の名前です。シングルジャケットやプロモヴィデオではおなじみの美しい自然がたっぷりの岬です。晴れればアイルランドも対岸に臨めるそうですから、素晴らしい景色が堪能できるわけです。近くにはキャンベルタウンというウイスキーで有名な都市もあります(後でちらっと名前が出てきます)。ここにはポールの農場があり、ポールは毎年必ず帰っているようです(ヘザーと再婚してしばらく、帰らない時期もあったようですが・・・また帰ってきていると信じましょう)。ポールにとって、キンタイヤ岬はスコットランドでも特になじみが深い場所なのです。レコーディングはその農場の納屋で行われています。ちなみに、この曲が後述の通り大ヒットしてしまった後、僻地にすぎなかったキンタイヤ岬は世界中のポール・ファン(苦笑)から注目を浴びることとなり、今では観光名所とまでなっています。岬の行く末まで変えてしまうポールの力は、いやはやすごいものですな。

 歌詞は、ずばりポールによるキンタイヤ岬への賛美そのものです。世界中を旅して、どんなに美しい風景に出会っても、最後はやはり懐かしきキンタイヤ岬に戻ってゆく・・・。故郷を持つ者なら誰でも抱く郷愁と、故郷への誇りを歌っています。“My desire is always to be here(私の願いは ずっとここにいること)”は、まさにこの歌の真髄といえるでしょう。元々メロディがシンプルなつくりなので歌詞も短めなのですが、そこがいかにもトラッドぽくできています。風光明媚な自然描写は、知らない場所でも景色が浮かんできそうなくらい鮮やか。「ご当地ソング」となったキンタイヤ岬の地元住民や、スコットランド国民ならこの曲の登場に泣いて喜んだことでしょう。ポールのスコットランドにかける思いが凝縮された、詩のように美しい詞作です。さて、デニーはどの程度貢献しているでしょう?(笑)

 曲は当然ながらスコティッシュワルツ。それだけあって、演奏はアコースティックな楽器編成で行われています。ポールとデニーの2人によるアコギが機軸となっていて、いかにも民謡っぽい雰囲気を出しています。アコギのパートだけ取り出して、弾き語りなんかもできそうなスタイルです。ウイングスのメンバーでは、ジョーがウイングスで最後のドラムスを披露しています。アメリカ人ドラマー・ジョーにとってこの曲のレコーディングについて感想を聞いてみたいですね(苦笑)。そして特筆すべきが、バグパイプのソロをフィーチャーしている点でしょう!演奏に参加したのは、地元キャンベルタウンのバグパイプバンド「キャンベルタウン・パイプ・バンド」(パイプ奏者7人・ドラム奏者10人)。ポールの誘いによって実現したもので、普段は地元で地味に音楽活動をしていたバンドの面々にとって世界一のグループと共演できるという、生涯忘れられないセッションとなりました。ついでにプロモ・ヴィデオにまで登場を果たしています。そして、この曲の大ヒットにより、バンドはその年スコットランドでNo.1エンターテイナーに選ばれるという名誉も頂いています。今でも「俺があの時のキンタイヤっ子だぜ!」などと自慢する人がいるようですが、自慢したくなるのも当然でしょう!ポールと共演できたのみならず、それが記録的大ヒットになり、一躍時の人となってしまったのですから・・・。

  

 曲構成は、サビと節を繰り返すだけのシンプルなものですが、ポールお得意の徐々に音が分厚くなって盛り上がってゆく構成が感動的な仕上がりです。冒頭はポールとデニーのアコギ弾き語りで幕を開けます。アコギをかき鳴らし、のっけから「Mull of Kintyre〜」と岬の名前が歌われます。前半はアコギしか入っていなく、ギターのボディを軽くたたく音がクリアに聴こえるほど静かなのですが、2度目のサビが終わって間奏に入ると、いよいよバグパイプバンド(+ジョー)の出番です。ここからはバグパイプの澄んだ音色と、スコットランド独特のドラムの音色がサウンドの中心となってゆきます。もう誰がどう聴いてもいかにもスコットランド!な音で、スコットランド色が濃く出ています。流れるようなメロディが聴いていて心地よいです。そして終盤に差し掛かると、ドラミングが派手になる中、コーラスも一挙に分厚くなります。みんなで一緒になって賑やかに歌う光景が目に浮かぶこの箇所も、いかにもスコットランド民謡風なのですが、バグパイプバンドのメンバーまでもがコーラスに参加しているに違いありません。最後はみんなで「ラララ・・・」のコーラスを歌いつつフェードアウト。実はさりげなく第2節と最後の繰り返しで転調しているのも効果的で、どこまでも高く突き抜けるかのようなメロディラインが感動を誘います。ヴォーカル面では、終始穏やかなポールのヴォーカルと、リンダとデニーの美しいハーモニー、そして終盤のコーラスとの対比が印象的です。ポールも最後の最後はハイテンションで喜びの雄叫びを上げていますが・・・(苦笑)。

 この曲のアウトテイクとして、スタジオ・デモが2種類発見されています。いずれも、キャンベルタウンでの録音と思われていますが、バグパイプバンドはまだ参加していません。(たぶん)ポールがアコギを弾き語り、そこにリコーダー風の音色のムーグでバグパイプのメロディを奏でています。片方はインスト・ヴァージョンで、1分ちょっとで終わってしまいます。メロディを奏でるムーグの音がちょっとチープですが(汗)、牧歌的な雰囲気はオリジナル以上かもしれません。もう一方はポールの歌が入っており、デニーがハーモニーをつけています。ほぼオリジナルと同じ長さで演奏されています(途中でフェードアウトしてしまいますが・・・)。この時点で歌詞は完成しているのが分かります。こちらもバグパイプのメロディはムーグで奏でられています。アウトテイクは「Water Wings」など「ロンドン・タウン」関連のブートで聴くことができます。

  

 さて、ご当地で無事に完成を見たご当地ソングは、アルバム「ロンドン・タウン」が完成する前に、先にシングル発売されました(1977年11月)。シングルジャケットはキンタイヤ岬をあしらった美しいもので、キャンバスにポール・リンダ・デニーの3人が描かれている(!?)格好になっています。実は、ポールの英国回帰路線とは逆に当時の英国の音楽シーンはパンクであふれており、ポールはこのシングル発売に最初は悩んだそうです。パンク好きの若者に「パンク真っ盛りの中スコティッシュワルツなんて冗談かよ!」と言われるのではないかと。ところが、ポールの不安とは正反対に、この曲は英国では発売されるや否やものすごい勢いで売れまくりました。まず、ウイングスはもちろんポールにとってビートルズ解散以降初の英国1位。9週連続1位を記録した雑誌もありました。これまで本国のチャートで苦戦してきたポールにNo.1シングルの朗報が届いたのもつかの間、シングルは3週間で25万枚、2ヶ月後には約167万枚もの売上を記録する快挙を成し遂げ、当時の英国でのシングル売上記録をあっという間に更新してしまいました(ちなみに、それまでの最高記録はビートルズの『She Loves You』)。この怪物的な記録は、1984年にチャリティ・バンドのバンド・エイドによる『Do They Know It's Christmas?』が塗り替えるまで君臨し続けたわけですから、いかに驚異的な大ヒットだったかが分かります。[面白いことに、『She Loves You』『Mull Of Kintyre』『Do They Know〜?』のすべてにポールが名を連ねています・・・!]翌1978年には売上枚数はついに200万枚を越えてしまいました。このポール史上最高の記録は、ウイングスを知らない人たちや、パンクにはまっていた若者にも広く浸透していったことの賜物でしょう。やはり、故郷への思いは誰しもみな同じなんでしょうね。ちなみに、このシングルは後に『Only Love Remains』(1986年)がシングル発売される際、無料のボーナス・ディスクとして再発されていました。そのことからも、この曲の英国での根強い人気がうかがえます。

 このように英国では記録的大ヒットとなったこの曲ですが、一方の米国ではキャピトル・レコードが発売に待ったをかけ「英国色が濃すぎるスコティッシュワルツでは売れない」という判断から、B面だったアップテンポのロックナンバー『Girls' School』と面を逆にして発売する、という措置を取りました。しかし『Girls' School』ならリスナーが飛びつくだろう・・・というキャピトルの思惑は失敗し、33位止まりとなったシングルはヒットには至りませんでした。そのまま『Mull Of Kintyre』をA面にして発売していたらヒットにつながっていたか・・・といえばそれはますます考えにくいので(苦笑)、『Girls' School』をA面にして発売したキャピトルの判断はまぁ理解できますね。違うお国の民謡ですし・・・米国で日本の演歌を売るようなものと考えると分かりやすいかもしれません(苦笑)。おかげさまで米国では、この曲は全然注目されない曲になってしまいましたが(ベスト盤「オール・ザ・ベスト」の米国版にも収録されていない)。英国と米国の国民性の相違があらわになったエピソードです。

 これほどの売上を記録したのにもかかわらず、この曲はオリジナルアルバムに収録されませんでした。関係者はアルバム「ロンドン・タウン」の最後に収録すれば?と勧めたようですが、ポールは「アルバムのコンセプトとは違う」と言って断ったそうです。これは1979年の『Goodnight Tonight』にも通じますが、この『Mull Of Kintyre』に関してはポールは「少し後悔している」とも話しています。確かに、この曲が収録されていればアルバムはもっとヒットしたでしょうし、アルバムのカラーにもぴったりでしたから、それもよかったのかもしれませんが・・・。

  

左がキンタイヤ岬で撮影されたプロモ、右がスタジオで撮影されたヴァージョン違いのプロモ。

 この曲は、シングル発売されたことからプロモ・ヴィデオも制作されました。しかも、2種類も!これは、ポールいわく「大ヒットで2ヴァージョン作れるほどの売上が上がったから」とのことですが・・・。

 まず、発売前に作ったプロモから。これは、歌の舞台でありレコーディングの舞台となったキンタイヤ半島で実際に撮影されています。キンタイヤ岬や周りの農場・野原・海辺などが映っているので、現地がどんな感じなのかがよく確認できる、美しいキンタイヤの風景を堪能できるプロモです。レコーディングにはジョーが参加しましたが、プロモにはポール・リンダ・デニーしか参加していません。最初は、ポール所有の農場でポールがアコギを弾き語るシーンから始まります。そこに同じくギターを抱えたデニーと、手持ち無沙汰なリンダさんが合流し、3人でキンタイヤを歩き回る・・・といった形で展開してゆきます。メンバー3人の時期なので寂しさも感じさせますが、ウイングスはこの3人が基本だなぁと改めて思わせます。『London Town』もそうですが、放浪する3人を見ていると一緒に散歩したくなってきますよね(笑)。そして3人が海辺に到着すると、向こうから砂浜をバグパイプバンドが歩いてくる・・・という形で間奏に入ってゆきますが、この光景が少し滑稽で仕方ありません。いくらスコットランドでも、バグパイプバンドが砂浜を歩いてくるなんてシチュエーションはお目にかかれませんから!もう一方のプロモの方がその点もっと滑稽ですが・・・。バグパイプバンドは、ここでも「キャンベルタウン・パイプ・バンド」が登場しています。各人ちゃんと顔が(中にはどアップで)映っていて、家族や知人にさぞ自慢ができたことでしょう。そして終盤はバンドのメンバーのみならず、近所の人たちまでもが参加しています。“Flickering embers grow higher and higher(輝く炎はどんどん高くなってゆき)”を再現すべく、みんなで焚き火をするシーンですが、和気あいあいとした雰囲気が英国ぽくていいなぁと思います。ウイングスと共演できるなんて、ちょっとうらやましく思ったり・・・。ポールやデニーも楽しそうに歌っています。焚き火のシーンで夕暮れから夜になってゆくのですが、この辺は映像で見ると感動的です。

 もう1種類が、ポールが驚異的な売上を見て制作を決めたプロモです。今度は、キンタイヤ岬ではなくエルスツリー・スタジオ内で撮影されています。そのスタジオ内に、キンタイヤの景色に似た背景をセットしていますが、なんだか実際よりもだいぶ山奥に来てしまったかのような印象です(苦笑)。霧が立ちこめる中ポールがアコギを弾き語りつつ登場し、その後はアコギのデニーと手持ち無沙汰のリンダさんと合流するという同パターンで展開してゆきます。スタジオなので、あちこち動き回らずに1箇所に座って歌っているのが違いでしょうか。なんだかみんなハイキングに来たかのような格好です。そしてこんな山奥に、先ほどと同じようにバグパイプ・バンドが歩いてきます・・・!これが砂浜以上に滑稽なシーンです(笑)。ポール自身、プロモ集「The McCartney Years」で冗談交じりに解説していたほどですから、まぁわざとなんでしょうが。ちなみに、このヴァージョンで使用された音源はエディット・ヴァージョンで、第2節の後にいきなり最後のリフレインに飛んでしまいます。そして、リフレインをもう1回繰り返した後フェードアウトする構成です。当時DJ用に配布されたプロモ・エディットは、このエディット・ヴァージョンからリフレインの繰り返しをカットしたものでした。

 以上2種類のプロモは、いずれも現在はポールのコメントつきでプロモ集「The McCartney Years」で見ることができます。そこでポールが触れているように、ウイングスが「マイク・ヤーウッド・ショー」(1977年12月10日)に出演した際にもこの曲が演奏されています。以下のような感じです。

 この曲がライヴで初披露されたのは、1979年のウイングス英国ツアーでのこと。まだ大ヒットの余韻が残る中、しかも英国とだけあって、この曲に対するファンの期待は大きいものだったことでしょう。実際、コンサートの最後から2曲目というハイライトでの登場となり、盛大な拍手に迎えられました。中でもブートの名盤「LAST FLIGHT」で聴くことのできるグラスゴー公演は、スコットランドだけあって割れんばかりの大歓声です。その後ソロになってからは、必ずバグパイプバンドと共演する形で演奏されています。ということは逆に、バグパイプバンドのいない国ではやらないということで(汗)、この曲は一部公演のみの特別メニューという形で取り上げられるようになっています。この曲が演奏された国として、カナダやニュージーランドなどが挙げられますが、やはり何と言ってもご当地のスコットランドでは必ず演奏しているポールです。うち、通称「ゲット・バック・ツアー」中の1990年6月23日・グラスゴー公演の模様は、ライヴ盤からのシングル「All My Trials」のカップリング(日本ではシングル「The Long And Winding Road」カップリング)に収録されていますが、もうこれが異様なまでの盛り上がりです。観客は冒頭からずっと歌いっぱなしだし、ポールも喜びのあまり雄叫びを原曲の倍の頻度で上げています。ご当地だけあって、他の曲とは違う特別な思い入れがあるんでしょうね。逆に、米国や日本ではまだポールの生演奏は聴かれていません・・・。日本も、共演できるバグパイプバンドがいればポールが演奏してくれそうですが・・・。

 最後に、蛇足として(蛇足じゃないか)、この曲とデニーの関連について触れます。先に触れたように、デニーも共作者として名を連ねるこの曲をデニーもとても大切に思っているらしく、ウイングス解散後もいろいろと取り上げています。1996年にデニーは、自作曲などのセルフ・カヴァー集「ウイングス・アット・ザ・サウンド・オブ・デニー・レイン」を発表していますが、この曲もその中でセルフ・カヴァーされ、見事1曲目に収録されています。基本的な構成・アレンジは同じで、デニーのアコギ弾き語りで始まりますが、ここではバグパイプの代わりにフィドルのソロを挿入し、スコティッシュワルツというよりフォークっぽく仕上げています。肝心のデニーの声があまり出ていなくて、掛け声も空振りで聴いていてちょっと痛々しいのが残念ですが・・・(汗)、それでも精一杯思い入れを込めて歌い上げてくれるデニーです。また、デニーのコンサートでは定番になっているらしく、2006年の来日公演でも当然レパートリーに入っていました。この時はバグパイプの音はキーボードで再現し、デニーはオリジナル通りアコギでした。私が行った公演ではこの辺りのMCが面白くて、デニーがこの曲の説明をする中でアイルランドの都市「コーク(Cork)」を挙げて「コカコーラ(英語ではCokeとも言う)じゃないよ」とギャグをかましたり、演奏を始めた直後にバンドのメンバーが何か面白いことを言ってデニーを笑わせてしまいなかなか歌に入れず、「笑わせるならやらないよ」と言う1こまがあったりと、いろいろ笑わせてくれた「老眼鏡デニー」でした(笑)。(エンディングでは演奏中なのにデニーが失踪するというハプニングもありました・・・)ちなみに、デニー・ヴァージョンでは2度目の間奏で「ラララ」コーラスを歌う構成となっています(ライヴでは観客にも歌うよう促している)。

 ここからは個人的なお話を。たいていの方がそうだったかもしれませんが、初めてこの曲を聴いた時は、聴く前に抱いていたこの曲のイメージと全く違い、本当に驚きました。聴く前に「大ヒットした曲」という情報は得ていたので、邦題「夢の旅人」から想像して「きっとすごい迫力の曲に違いない!」と1人わくわくして「オール・ザ・ベスト」を聴いたのですが、いざ流れてきたのは「これが大ヒット曲?」と疑ってしまうようなスコティッシュワルツ・・・。まるでカルチャーショックのようでした。しばらくはその印象が強かったのですが・・・。[蛇足ですが、私の所持しているすべてのCDで初めて傷による音飛びを起こしたのが「オール・ザ・ベスト」収録のこの曲で、音飛びを直す機械を買うほどひどかったのですが、その後別のベスト盤でもこの曲で音が飛ぶ、という悲しい運命にあっています・・・]

 しかし、その後「ロンドン・タウン」のボーナス・トラックで改めて聴いてから、アルバム本編と共に好きになってゆきました。「ロンドン・タウン」が私が最も好きなポールのアルバムということ、私がデニー・レインのファンということもありますが、やはりこの曲に関する私の思い出といえば、「守谷海岸」を挙げずにいられません。と言われて何のことだか分からない方に一応ご説明しておきましょう。私はよく房総半島方面へドライヴすることが多いのですが、その車内BGMでよく「ロンドン・タウン」をかけています。このアルバム、不思議なくらいそっち方面の景色にぴったりはまるのですが、ことにこの『Mull Of Kintyre』は、勝浦市の太平洋に面した「守谷海岸」にある岬の風景と非常にマッチするのです。おかげさまで、房総半島に寄るときは必ず守谷海岸に立ち寄ってこの曲を車内で聴きながら景色を堪能し、その後浜辺に出てプロモよろしくポールやデニーの真似をする・・・というのが習慣になっています。本当に、この曲からはドライヴの度に感動をもらっています。いまや、私の中では屈指のお気に入り曲となっています。

  

ちなみに、これが「守谷海岸」(千葉県勝浦市)です。確かに、キンタイヤ岬に似ているような似ていないような・・・。

 この曲の舞台、キンタイア岬にはいつか行ってみたいですね。それで、ポールやデニーの真似をする、と(笑)。ロンドンにすら行ったこともないのに、いきなりキンタイヤ岬というのもどうかと思いますが(汗)。あとは、この曲をポールのライヴでぜひ体験したいのですが、これは日本にバグパイプバンドがないと難しいかもしれません・・・。バグパイプのパートはウィックスに任せて、日本でも演奏というわけにはいかないでしょうか・・・?(まぁ、私はデニーのライヴでは体験しているのですが・・・)

 この曲はオリジナルアルバムには収録されていませんが、現在は「ロンドン・タウン」のボーナス・トラックに収録されているほか、「オール・ザ・ベスト」(米国版は未収録)や「ウイングスパン」など各種ベスト盤にも収録されています。ですから、入手は容易です。

 この曲は、異国の民謡であるスコティッシュワルツなので、なかなか我々日本人にはとっつきにくいかもしれません。「退屈する」という意見もあるほどですから・・・(汗)。しかし、そうした先入観を取り払うと、国境を越えた郷愁をメロディや歌詞、演奏から感じ取ることができます。「ロンドン・タウン」のようなゆったりした雰囲気の曲・アルバムが好きな方にはもちろんですが、そうでない方にもぜひ肩肘張らずに聴いていただきたい曲です。私のように、田舎の海沿いで聴くとすごくはまるかもしれません。この上ない感動に出会えること間違いなし!個人的には、同じ作風の曲が集合している「ロンドン・タウン」で聴くのをお勧めします。

 さて、次回紹介する曲のヒントですが・・・「マークスさん」。またマニアックになりますので(苦笑)、お楽しみに!!

 (2008.9.15 加筆修正)

  

(左)当時のシングル盤。英国で驚異的な売上を達成!ジャケットにはキンタイア岬の姿も。米国では『Girls' School』がA面だった。

(右)アルバム「ロンドン・タウン」。この曲と同時期に制作・発表された、トラッド風味漂う隠れた名盤。全体的にまったりした空気感が特徴。

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